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天翔ける騎士 第2章「林檎の城」

Aパート


"the Almalik" A-Part


 少年は、走りながら後方を振り返ってぎょっとした。いつの間に
か追手が1ダースほどにまで増えているではないか。
 連邦の捜査官を殴り倒せば、未成年と言えどお尋ね者になるのは
分かっている。それにしても、これは、いささかならず常軌を逸し
てはいないだろうか。唯一原因と考えられるのは、彼の傍らを走っ
ている少女だが、このような状況では素性調査をするわけにもいか
ないだろう。さしあたって逃げることだけで精一杯というのが、現
状である。
 善良な市民なら奇異を禁じえない追跡劇は、舞台を宇宙港に隣接
した貨物ターミナルに移した。
 広大な敷地を膨大な貨物に占領されているターミナルは、逃走者
にとっては絶好の環境であった。何せ、そこらじゅうに積み重ねら
れているコンテナ類によって、敷地がほぼ迷路状になっているから
である。それを知ってか知らずか、追手たちも一時追跡を断念した
らしく、足音は聞こえてこない。疲労と安堵で、小さな逃亡者たち
は巨大な倉庫の裏で、座り込んでしまった。
 増援部隊でも要請しているのだろうか。少年は酸素不足の頭で考
えた。だとしたら、一刻も早く遠くに逃げなければならない。しか
し、10分近くも全力で走り続ければ、休憩なしには、それは不可
能であろう。自分だけならまだしも、本来の追跡の対象である少女
を連れているのだ。とにかく今は少しでも休もう。
「ごめんなさい」
 5分も経ってからだろうか。呼吸が整ってから、少女は言った。
「私のために、こんなことになって」
 少年はとっさに慰めの言葉が思い浮かばず、口にしたのは平凡な
台詞だった。
「大丈夫、気にしないで」
 言ってから、彼は心の中で自分の語彙の貧弱さを罵う。
「…どうして、わたしなんかを助けてくれたの?」
「え…? だって女の子が追われてたんだ。助けないわけにはいか
ないよ」
 本当にそれだけなのか?
 彼を真っ直ぐに見つめる春の太陽の瞳に上気しながら、少年は自
問した。解答は出てこない。出てくるわけがなかった。彼の思考回
路は、少女の瞳が持つ太陽によってショートしてしまったのだ。
 人はそれを「恋」とでも呼ぶのだろうが、事態の異常さが彼をそ
の認識から遠ざけていた。少なくとも、少女の身の安全を確保しな
ければならないという、使命感を持っていたのは確かである。一度
助けたからには、最後まで責任を負うつもりであった。自分でもそ
れは増長だと分かっていたが。
「もう大丈夫?」
 少年の言葉に少女は頷いた。間もなく再開のベルは鳴るはずであ
る。それまでに、少しでも遠くへ逃げなければならない。どこへ行
けばいいのかは分からないが、少なくともこんな場所では助けも呼
べない。
 少年はふとあることを思い出した。近くにあった入口のドアのノ
ブを回してみる。
 その時、少女が小さく、だが鋭く悲鳴をあげた。彼女の視線の先
には、銃を持った連邦の捜査官の一団があった。

 二人は倉庫の壁を背にして、半包囲のただなかにいた。いくら宇
宙港では捜査官二人を相手にしたとはいえ、今度ばかりは中央突破
をはかるわけにもいかない。何しろ相手は多勢で武器まで携行して
いるのに対し、こちらは丸腰で、しかも女の子を連れている。
 少年は勇敢ではあっても、無謀ではなかった。彼は素早く背後の
ドアを開け、少女とともにそこに逃げ込んだ。ドアに鍵がかかって
いないことを、先程確認したのだ。
 彼は素早くドアに鍵をかけて、少女の方を振り返った。そして、
少女の肩が小さく震えているのに気が付いた。
「どうしたの?」
「…もういいわ、これ以上あなたに迷惑をかけたくない…」
 倉庫の中は薄暗く、少女の表情ははっきりわからない。しかし、
声は明らかに泣いていた。宇宙港では少年と協力して、捜査官を叩
きのめした勇敢な少女は、そこにいなかった。やはり女の子、とい
うべきか、心に脆い部分を持っているようだ。少年は戸惑った。し
ばらく考えた後、明るい声で力を込めて言った。
「僕は一度君を助けたんだ。最後まで助けてみせるよ」
 少女ははっとして少年を見つめた。両の頬に細い一条の線が微か
に光った。
「それに、迷惑だなんて思ってない。思ってたら助けなかったよ」
 それが強がりであることは、言った彼が一番良く分かっていた。
それでも言わなければならなかった。少女を安心させるために、何
より自分の意志を明確にするために。
 彼自身、ここまではっきりと意識していたわけではないが、変に
頑固なところがあって、とにかくやらなければ、と思ったのだ。
「さ、行こう」
 少年は少女の手を取ろうとしたが、やはりそれは大それた行為だ
と思い直したのか、途中で手を止めた。しかし、止めた少年の手を
少女のそれがやさしく包み込んだ。今度は彼がはっとする番だった。
少年は少女の顔を見やった。薄暗い中で、春の太陽が水面に映った
ように揺れた。
 ありがとう。
 言葉には出さなかったが、少女の瞳と掌ははっきりそう言ってい
たのが分かった。
 少年は照れて頭をかきながら、周りを見回した。どうせ倉庫の周
囲は連邦の連中によって包囲されているに違いない。そんな所にの
このこ出ていくほど馬鹿ではない。外では投降を呼びかける拡声器
の声が鳴り響きはじめた。彼は巨大な倉庫の一角に目を止めた。地
下へ下りるらしい階段があった。彼はそこへ向かって歩き始めた。
「いつだったか、宇宙港の職員に聞いたことがあるんだ。貨物ター
ミナルの倉庫は、非常用の地下通路で結ばれているって」
 1段1段階段を降りていく。靴音の響きが、何となく二人を不安
にさせた。階段を降りきったとき、前方に暗く、長い空洞が口を開
けている。通路自体は十分使用に耐える構造になっているようだっ
た。ようだった、というのは、通路の壁面に塗られてあった発光性
の塗料だけが唯一の光源で、その僅かな光では辛うじて足元を確認
できるだけだったからである。
 少年は少女の手を取って歩き出した。強く握り返す少女の手から、
不安と恐怖が伝わってくる。走り出したい衝動に駆られながらも、
懸命に抑えてゆっくりと、確実な足取りで進むよう努める。
 一体どれほど歩いただろうか。カギのかかったドアや行き止まり
に悩まされた二人が再び地上へ出てきたのは、ターミナルの外れ、
火星や金星に本社のある輸送会社の倉庫のあたりだった。
「もう大丈夫かな」
 安堵した少年が視線を巡らすと、あろうことか、付近を警戒中の
捜査官と目があってしまったのである。
 捜査官が大声で仲間を呼ぶのと同時に、二人は再び逃走を開始し
た。
 背後から銃弾が飛んできた。威嚇なので狙いは正確ではないが、
命令が下れば、一撃で射殺させてしまうだろう。
 倉庫の角を曲がった瞬間、二人は、突然開いた倉庫の扉の中から
伸びた腕に掴まれて、倉庫の中へと姿を消してしまった。捜査官た
ちが角を曲がってきたのは、その数秒後だった。



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