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天翔ける騎士 第8章「月へ集う者たち、」

Aパート



"light of silence" A-Part


 軽いノックの音で、彼は自分の目の酷使にようやく気が付いたよ
うだった。眼鏡をずり上げて、目頭を強く押す。
 暗闇に原色のフラッシュが走り、それが消えるか消えないかの内
に、眼球全体を何とも言えぬ感覚が包んだ。あまり好きな感覚では
なかったが、今はそれが心地よかった。
  椅子の背に体を預け、大きく伸びをする。関節が無数に悲鳴を上
げるのを聞きながら大きく首をそらした。逆さまになった視界の中
にドアが飛び込んできて、彼はノックの音があったことを思い出し
た。
「どうぞ」
  相変わらずの気の抜けた声だ、と思いながら、姿勢を戻して、再
び画面に視線を戻した。しかし、腕はコンソールの上には戻らず、
肩やら首を揉みほぐしている。
 ややあってドアが開いて、声が飛んできた。
「明かりぐらい点けろよ。不健康な」
  男の声だが、その声の主はすぐには部屋の中には入ってこないで、
入り口の付近で何やら壁をまさぐっていた。
「明かりのスイッチならこっちだ」
  画面を見詰めながら、彼は言う。しかし、自分で明かりを点けよ
うとする素振りは見せない。いつの間にか椅子の上にあぐらをかき、
腕組みをしていた。
 部屋に足を踏み入れた男は、彼の方を見やった。
  男が差し当たって感じたのは、軽い眩暈だった。
  明かりのない部屋で、光源といえばディスプレイの発光と、ディ
スプレイの載っている机の脇にある熱帯魚の水槽の照明だけだった。
そして、その僅かな光源に照らされた部屋の中は、何というか、エ
ントロピーが極度に高い状態であった。
 部屋にある大半の物体は書物らしきものだったが、電子部品の基
盤や小型の工作機械、食器も混じっており、中には彫刻みたいなも
のや、何故かアイドル歌手の等身大看板も見受けられた。
 本棚やラックに大半を覆われた壁には、何かの設計図らしき紙や
風景画や抽象画、アイドルのポスターなどが貼ってある。もっとも、
ガラクタに遮られて、上半分程度しか見えないが。
「足の踏み場もないな」
  男はこわごわと部屋に入りながら、つぶやく。それに答えるよう
に彼は言った。
「あるよ、そこに」
  男は視線を下へずらすと、ため息をついた。肺を空にするくらい
の大きなため息である。
 僅かな光源の中に、確かに床が見えていた。しかし、それはまさ
に「踏み場」で、面というよりは点に近いものだった。
  男は慎重に足を踏み入れる。
 この状態で、彼の側へ行ったとして、果たして自分が入るスペー
スがあるかというのは、この際考えないことにした。重力が小さい
のが幸いだが、5歩目の着地をしたところで、何か柔らかいものを
踏んだ感じがした。
「ギャーッ!」
  という人間ではない叫び声とともに、小さな塊が視界を一瞬横切
った。次に知覚できたのは、大きく傾く視界と奇妙な落下感だった。
 男はバランスを崩して背中から倒れ込んでしまった。
 本が崩れる音、床を打つ音、ベニヤが割れる音、ガラスが割れる
音、何かがきしむ音。無数の音が複雑に交錯して、部屋の中を幾重
にも響き交わした。
 絶妙なバランスで積んであったガラクタの類が、衝撃と音によっ
て崩れきそうなほどに揺らいでいた。しばらくじっとしていると、
辛うじて崩落は免れたようだ。
 重力が小さいせいか、男に幸い怪我はないようだが、衝撃は小さ
いものではない。ガラクタに埋もれながら、男は彼を見やった。視
線の角度を言えば、見上げた。
「よしよし、大丈夫か、シュレーディンガー」
 彼は腕の中に飛び込んできた毛の塊を、優しく撫ぜていた。それ
に応えるように、甘えた声を出している。
「猫よりも私の心配をして欲しいのだが」
  男はうめき声にも似た調子で言った。
「馬鹿言うな。このシュレーディンガーはとても貴重な猫なんだぞ。
なにせ猫族では初めて小惑星帯を越えたんだからな」
「猫を連れて小惑星帯を越えようなんていう物好きが、お前しかい
なかったんだよ」
  男は毒づきながらも、何とか体勢を立て直したようだ。
 倒れたときにできた窪みが身体にちょうどいいらしく、そのまま
書物やら何やらの山に身体を落ち着けた。
 それを見やって、彼はわざとらしい口調で言う。
「おしいな。ここまで来られたら、取っておきの逸品をサービスし
ようと思っていたんだが」
「水槽の横に置いてあったやつなら、さっき猫が引っかけて落とし
て行ったぞ」
「なにぃ?!」
  あからさまに狼狽の声を上げた彼を見やって、男は軽く笑って言
った。
「残念だったな、ターティア」
  それに、心底情けなさそうな声で彼は答えた。
「ペーネロペーの10年ものだったんだぞ、フォーレ」

 果てしなく広がる平原を望むラウンジは、標準時午前10時とい
うこともあり、閑散としていた。あと1時間もすれば早めの昼食を
摂ろうという人々も現れるだろうが、この時間は人のいる方が希で
ある。注文を運んできたウェイトレスは、暇そうに欠伸をしていた。
「さて」
 彼、ターティア・カッセルはコーヒーカップを取り上げた。
 先ほどから照明の明るさにしきりに瞬いている目を細めて、一口
すすった。しばらくの間を置いて感極まったような息を漏らしたタ
ーティアを、男、フォーレ・サダヌーンは呆れたように眺める。
 眼前のターティアは、体内を移動するコーヒーが見えるような飲
み方をしていた。
「3日ぶりの栄養補給とはね」
 コーヒーに満足したのか、ターティアは彼の目の前に置かれた、
特大のホットドックに手を伸ばした。しかし、それにちらりと目を
やると、手を伸ばす方向を変えた。
「そうは言うがな」
 ターティアはサダヌーンを見据えて、非難がましく口を開いた。
視線はサダヌーンを見ているが、手はテーブルの端に備え付けられ
ているマスタードを握っていた。その蓋を開けながら彼は続ける。
「お前さんが無茶な注文を出さなければ、昨日あたりは食えていた
はずなんだぞ」
 サダヌーンはターティアの言葉を聞き流しながら、首をかしげた。
 この男の顔は何とかならないものだろうか。顔自体が笑っている
ような作りなので、本気で文句を言っているのか、冗談なのか分か
りにくい。
「フラスUを今年中に完成させろって? どうせ委員会の爺さんど
もが勝手なことをほざいたんだろ?」
 表情は笑ったように見えるが、これは本気で非難をしているらし
い。視線がサダヌーンに張り付いている。
 だから、マスタードの蓋ごと中蓋が外れ、広い口が露わになって
いることを知らない。ターティアはそのままマスタードをホットド
ックにかけ始めた。黄色いペーストが、線ではなく帯状にパンとウ
ィンナーを彩っていく。
 サダヌーンはあえて知らぬ振りをし、ターティアの質問に答えた。
「委員会の焚き付けがあったのは確かだが、それだけじゃない。連
邦軍が例の金色クラスの戦闘機の配備を行っている以上、フラスが
陳腐化するのはそう遠くはないよ」
 そして、欠伸をかみ殺していたウェイトレスを呼んで、水と、自
分の分のコーヒーのおかわりを頼んだ。そうしてから、残り少ない
コーヒーに口をつける。
 ターティアは、ホットドックを口の近くまで運びながら、サダヌ
ーンを質した。
「だから4号機のフレームを使って、強引にK5を作らせたのか?」
「まあな。こちらの力をアピールしないことには、火星圏と地球圏
の収まりがつかない。現に鳳技研は『銀河』の販売を認めなかった
しな」
 サダヌーンは忌々しげに吐き捨てた。空になったカップを脇にど
けながら、続ける。
「老人たちがつまらん意地を張った結果だが、小惑星帯から向こう
は、少なくとも味方ではなくなったよ」
 苦々しい表情のサダヌーンを眺めたターティアは、相変わらず笑
ったような表情で答えた。
「フラスと同等性能の量産機では、爺さんどもが突っぱねるのも分
かるがね。どうせフォローはするんだろ?」
 そこでターティアは大きく口を開けて、ホットドックにかぶりつ
いた。それがいかにも楽しそうな表情だったので、さすがにサダヌ
ーンは気の毒になった。
 水とコーヒーを持ったウェイトレスが近づいているのを確認して、
済まなそうに言った。
「ポイントバリアー実装の対艦攻撃機を40機。万事順調なら納品
は来月だ。…水ならあるぞ」
 くすくす笑いながら水を手渡すウェイトレスを、情けなさそうな
顔で見返して、ターティアは水を一気に飲み干した。さらに気を効
かせて持ってきてくれたおしぼりを受け取って、吹き出した汗と涙
と鼻水を拭ってから、サダヌーンの小生意気な顔をにらみ付けた。
「…ポイントバリアーか。委員会がK5やフラスUの建造を急ぐわ
けだ。あんたを月にまで寄越したしな。いよいよ本気でテラを潰し
にかかるわけだな」
 サダヌーンは軽く肯いた。
「ニンリル艦隊は確か今日到着のはずだ。アークライトも4日には
SS11を発つ。ファディレ提督の到着も近い。今は嵐の前の静け
さというやつさ」
 ターティアが大量のマスタードをスプーンで除けるのを見ながら、
サダヌーンはふと不安げな表情になる。
「ケムラーもカウニッツも、シナリオから外れた動きはしていない。
問題は、テラがどう動くかだ…」
 ターティアはまともになったホットドックをかじりながら、嬉し
そうに笑った。といってもあまり表情に変化はないが。
「テラも結局は老人の集まりに過ぎないと思うがね」
「確かに、ケムラーはテラを利用している。だが、テラがケムラー
らを利用しているとしたら…」
 サダヌーンは珍しく神妙な顔を浮かべた。
「ま、その時はその時だ。13人委員会ですら持て余している我々
だ。これ以上老人たちに関わると、ロクなことにならんぞ?」
 ターティアはホットドックを食べ終えたが、まだ物足りなそうな
顔をしていた。サダヌーンは表情を和らげて、メニューを差し出し
た。
「好きなものを食べるといい。無理をさせたからな」
 そう言ったが、すぐにそれが失敗だったと悟る。ターティアがし
てやったりという顔をしたからだ。
「そうだな。社長だもんな。たまに顔を合わせた友人には、奢って
くれるのが普通だよな」
「…顔を見るたびにタカるような輩を友人とは呼ばんよ」
 苦々しく吐き捨ててみる。
「それはそうと、アークライト提督が来ればフラスとエヌマをいじ
れるな。それに、あれをまともに動かせるパイロットにも会えるか」
 やってきたウェイターに大盛りチキンピラフとコーンクリームス
ープと特大ハンバーグ、それにジャンボパフェを注文したターティ
アを見て、軽くこめかみを押さえつつサダヌーンは表情を曇らせた。
「…あのシャルレインとかいう女の子、おそらく−」


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