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天翔ける騎士 第8章「月へ集う者たち、」

Bパート



"light of silence" B-Part


 地球連邦宇宙軍、内軌道方面艦隊司令官ニンフ・ニンリル中将は、
西暦2191年11月1日午後、月面アームストロング市へ降り立
った。8月にケムラー総帥の孫娘を護衛して来て以来で、3ヶ月ぶ
りである。その間にラグランジュ同盟との戦争に突入し、連邦軍は
連敗を喫している。この辺りで挽回を図らないと、月面はおろか一
気に地球まで奪われてしまうかもしれない。
 そのような状況下での月面入りである。物議を呼ばないわけはな
かった。
 ニンリル中将が乗艦のハッチをくぐり出た瞬間に、視界が白濁し
た。それが消えぬうちにまた白くつぶれる。それがカメラのフラッ
シュだと気付くのにしばしの時間がかかった。
 ようやく視界が回復して周囲を見回すと、フラッシュ付きのカメ
ラを抱えた人間の大群が、ニンリルの周囲に殺到していた。月面の
ジャーナリストや報道レポーターたちが一斉に押しかけてきたかの
ようである。
「すまない、今は勘弁してくれないか」
 と手でフラッシュを遮るが、一向に止まない。地球ではマスコミ
にろくに相手にされなかったニンリルなので、かなり戸惑う。
 と、急に視界が陰ったような気がした。見ると、旧知の人物が目
の前に立っていた。
 ハーコート・ヴァノン中将。外軌道方面艦隊司令官である。ニン
リルの様子を見かねて、記者たちを押しのけて来たようだ。
「軍施設での取材は、当局の許可を取ってくださいね」
  ヴァノンは、巨体とそれに妙に釣り合った優しげな顔立ちの男で
ある。小さな目が印象的だ。もっとも、その巨体に見合った怪力で
記者たちを押しのけてニンリルを助け出しているから、その丁寧な
言葉づかいも、ある意味凄みを持っていた。
「すまん、ヴァノン中将。手数をかけて」
「いえいえ、本来なら記者を寄せ付けない体制でお迎えすべきだっ
たのですが」
  巨体を縮めて、まさに恐縮されてはニンリルも皮肉を言う気にな
れず、笑って同僚の労をねぎらった。体格に似合わず物腰の丁寧な
ヴァノンは、律儀に礼を返す。それから、振り返って物資の搬出を
行っている艦艇を眺めたヴァノンが、ふと驚きを声を上げた。
「ニンリル中将、あの金色の戦闘機は…」
  ニンリルは振り返ってヴァノンの視線を追った。
 金色、といっても戦闘とそれによる損傷などで汚れてかなりくす
んでいる。しかし、聖剣の名を与えられるはずだったその戦闘機は、
傷ついてもなお、その輝きを失ったわけではなかった。
「『オフィーリア』。ALF旗艦のアーマロフに搭載されていた機
体だ。損傷して漂流していたところを、偶然発見して救助した」
  ニンリルが月面に到着する直前のことだ。
 アークライト艦隊とALFが戦った「SS7沖会戦」の戦場近く
で、消えかかった遭難信号が受信された。捜索の結果、この「オフ
ィーリア」が発見されたわけである。5日以上漂流しており、パイ
ロットの状態も心配されたが、衰弱の他は別状なく、月面到着と同
時に病院に収容された。
「機内のサバイバルキットは3日が限度ですからね。若いパイロッ
トだから体力にも余裕があったんでしょうね」
  ヴァノンは感心したように肯いた。それを受けて、ニンリルも肯
く。
「それに運も強いようだ。あのパイロット、確かライル・フォーテ
ィマとかいったが」
  その名にヴァノンがニンリルを振り返った。
「ライル・フォーティマ?  なるほど。『オフィーリア』で気づく
べきでしたね。総帥の秘蔵っ子、金色のライル」
  ニンリルが懐から書類を引っ張り出してヴァノンへ手渡した。
「おまけにラグランジュの黒い鳥と白い妖精と戦って生還した、希
有の例だ。修理が済めば、オフィーリア共々、『グラディウス』の
性能比較にはもってこいだよ」
 ヴァノンは書類を受け取って軽く目を走らせた。が、すぐに目を
戻す。
「あの2機を相手に生還とは。さすが、というべきですね」
 彼らの視線の先では、傷ついたオフィーリアが整備場へ運ばれよ
うとしていた。
 ヴァノンは改めて書類へ目を通し、ニンリルへ返した。
「『グラディウス』の準備は整っていますよ。結構高価な機体と聞
いてますがね」
「『ファルカタ』を重装備にした機体だそうだ。その分の金はかか
るだろう。問題はコストに見合った働きをしてくれるかさ」
 喋りながら周囲を見まわすと、マスコミの群れも憲兵によって追
い払われており、だだっ広い、それでいて喧騒と活気に満ちた、い
つものアポロ市軍港の姿に戻っていた。
「ところで、どうしてマスコミ連中がここまで?」
 ふとニンリルが首をかしげた。
 取材許可が必要というなら、そもそも中に入れるわけがないし、
あれだけ多くの民間人が軍施設にいるというのも不自然だ。
「情報公開法を盾に、アポロ市が軍施設への許可者の立ち入りを求
めたんですよ。取材とは別口で」
「そりゃまた無茶をしたな」
「情勢が情勢だけに、認めざるを得なかったようです。カウニッツ
元帥もアドリアン大将もだいぶ渋っていましたがね」
「で、ふたを開けてみれば許可者はマスコミ関係者ばかり、という
訳か」
「そうです。だから、基地内とはいっても迂闊なことは喋れません
よ?」
 冗談めかしたが、要するにスパイもどきがウロウロしているので、
オープンな場では機密を口にするな、ということである。
「それは分かったが、一般職員の機密保持はどうなんだ?」
 ヴァノンは無言で肩をすくめた。それを振り切るように、笑顔を
作って明るく言った。
「さあ、アドリアン大将がお待ちですよ」

 夕刻、それなりに煩雑な諸手続きを終えたニンリルは、月面での
軍最高責任者たる人物にようやく会うことができた。
「元気で何よりだ、ニンリル中将」
 白髪の老人が酒盃を掲げた。優しげな大男がそれに和する。ニン
リルは照れくさそうに笑いながら、杯を掲げた。
 大男はハーコト・ヴァノン中将である。外軌道方面艦隊司令官と
して、本来は月より外側の軌道を担当する。
 白髭の老人はリト・アドリアン大将。今年で67歳の月面駐留艦
隊司令官である。空席になっている連邦軍月面基地司令代理も兼ね
ているので、非公式に「月面防衛軍司令官」とも呼ばれていた。旧
連邦軍時代から、現在のテラ総帥で地球連邦政府の最高権力者たる
ローレンツ・ケムラーの部下だった男である。まさに宿将の名に相
応しい人物であるが、ニンリルら若者たちの台頭の中、引退の噂も
あった。
「閣下はケムラー総帥よりお若いではありませんか。引退などお考
えにならずに…」
 アドリアンとヴァノンによって設けられた、ごく私的な宴席であ
る。司令部の食堂から運ばれた料理と酒を前に、言葉を交わすうち、
アドリアン自身の口から引退という言葉が出たのを聞いた。かなり
冗談めかしたものではあったが、温厚で頼り甲斐のあるこの老人を
好いているニンリルは、思わずたしなめた。
 しかし、アドリアンは笑って手を振る。
「総帥ほどの歳まで軍にいようとは思わんよ」
 ケムラーは今年73歳である。ただ、長年の疲労が蓄積したのか、
先日執務中に卒倒し、現在静養中であった。
「のう、ニンフ」
 アドリアンはニンリルをファーストネームで呼んだ。アドリアン
は、ニンリルをファーストネームで呼んでくれる数少ない人間の1
人であった。
「わしはもう十分生きたと思っとるよ。その間、2回も大きな変革
を見てきたし、3回目を目にするかも知れん。時代は確実に動いて
いる。もう、わしのような老人には、世界を動かす資格はなのだろ
うよ」
 そう言ってニンリルとヴァノンを等分に眺めた後、天井を見上げ
た。そこは一部が透過素材になっていて、遙か星々を見すかすこと
ができた。
 彼の口調は、息子か孫に語りかけているものであるようだ。
「ここは重力が小さいからな。老体には楽だろう。コロニーのよう
にコリオリ力を考えんでもいい。ま、あとはフェリックスがいれば
文句はないか」
 フェリックスとは、木星の衛星ガニメデに駐留している辺境方面
艦隊司令官フェリックス・ルーシャン大将のことである。アドリア
ンとは旧連邦時代からの、40数年来の戦友であった。
「この街で年金生活、というのも悪くあるまい。もっとも、連邦政
府が存続すればの話だが」
 そのために戦っているようなものだ、と笑う。
 ニンリルはそれほど長い間アドリアンに会っていなかったわけで
はない。ケムラーの孫娘の護衛で来て以来なので、3ヵ月程度であ
る。だが、その間に開戦し連邦軍は連敗し、月面はケムラー戦争以
来の緊張に包まれていた。政軍両面にわたって、多忙を極めたこと
は間違えない。
 だが、その分の苦労を差し引いたとしても、何と老けたことか。
彼は、自分が生まれる以前から戦い続けた老将に、そっと頭を下げ
ずにはいられなかった。

 宴とはいえ、軍の実戦部隊の中枢を預かる者同士である。必然的
に話題は昨今の情勢へ移って行った。
「先日、月面主要都市の市長たちが押しかけてきたよ」
 アドリアンはさもおかしそうに口を開いた。
「ニンリル中将まで月へ来るそうだが、ラグランジュ軍の月面侵攻
が近いのか、とね」
「で、大将はどうお答えになりました?」
「軍事機密に関してはお答えできない。万が一侵攻があった場合で
も、月面各都市には自治権が与えられているから、抵抗も恭順も市
長の方々の判断次第だ、と」
「殊にアームストロング市長が傑作でしたね」
「ああ。彼らが真先に襲うのは、連邦軍の拠点があるここかアーム
ストロング市だからな。万一アポロ市を失ってアームストロング市
を中心に防衛線を張ったとしたら、或いはラグランジュ軍が占領し
ても、市長としては頭痛の種、ということだろうな」
 アドリアンは軽く笑ってグラスを傾けた。
「その点ではアポロ市長は、肝が据わってましたよ」
 ヴァノンは空になったニンリルのグラスにワインを注ぎ足しなが
ら、皮肉っぽく笑って見せた。
「『軍はいかなる立場であろうと市民を守る義務を負う。市民を守
って頂ける限りは援助を行うが、義務を放棄した場合はその限りで
はない』と。少し感心しましたよ」
 なるほど、とニンリルは思った。政治家にもそういう考えの人間
がいるのか、と感心する。
「ハカムたちもそう思ってくれればよいが…」
 彼ら、特にアーマンドやハカムはこの戦争に何らかの目的を見出
している節がある。この戦争の目的は、表向き「反乱軍」であるラ
グランジュ軍の殲滅にある。しかし、実際は連邦政府の母体である
「テラ」とそれに連なる者達の保身が目的であるのは、少なくとも
ニンリルらの目には明白である。だからこそ、ニンリルは戦争遂行
を主張するカウニッツを認めてはいなかった。
 アーマンドやハカムには、カウニッツらとは異なる目的があるよ
うだが、果たして、それは「戦争」を行うに足るものなのか。いず
れ地球に戻ったら問い質してみようと考え、思考を席での話題に戻
した。
 そこでふと心づいて、ニンリルは尋ねてみた。
「ところで、スタフォード市長は来ていましたか」
「裏側の都市からはほとんど来ていない。さすがに、腹を括ってい
るのだろうな」
「いっそ、彼らのほうが潔いですね」
 ヴァノンはアドリアンとニンリルのグラスにワインを注ぎ、自分
のグラスにも注いだ。そして、ニンリルに問いかけた。
「ところで、カウニッツ元帥は和平をする気は起こさないですか」
 本来なら慎むべき話題かもしれないが、アドリアンも止めなかっ
た。
「あくまで断固制圧を主張している。むしろ、アーマンドたちが和
平には積極的なのだが…」
「やはり、カウニッツには逆らえないか」
 少し皮肉気に、アドリアン。
「ええ。議会はおろか、官公庁にも彼の人脈が入ってますから。鉄
壁ですね。それに『総帥のご意向』と出られては、逆らえません」
「かと言って、ニンリル中将、この戦いを彼の私戦に終わらせる気
はないのでしょう?」
「当然だよ。何かが変わらなければ、死んでいった者たちが浮かば
れない」
 ニンリルは一息にグラスをあおった。ワインの一部が気管に入り
込んだらしく、少しむせかえる。
 その姿を見やりながら、アドリアンは心持ち諭すように言う。
「だが元帥は、総帥と貴官らとの間でかなり苦労しておられるよう
だぞ? 例のハカム大将の一件にしても、元帥のお陰で穏便に済ん
だのだしな」
 そこで杯を飲み干した。
「…何を考えているのかは分からんが、彼は決して意味のないこと
をする男ではない」
 空いたグラスへヴァノンが新たなワインを注ぐ。それを受けて、
言葉を継いだ。
「意味のないことをしないという点では、むしろアジェス元帥が徹
底している。あのふたりが何かをしている以上、そこには誰もが納
得できる意味があると、わたしは信じるがね」
「しかし…」
 反論しかけるニンリルを、アドリアンは軽く手を挙げて止める。
「もちろん、耄碌しかけた老人どもが訳の分からないことをやって
いる可能性だってあり得る。わたしも含めてな」
 複雑な表情を見せる若者たちに笑ってみせた。
「人間は不変ではない。完璧でもあり得ない。だが、だからこそわ
たしはあのふたりは信じ続けるよ」
 表情は笑っていた。軽くグラスを掲げて、傾ける。隠れた口元で、
しかし、彼は声を出さずに呟いた。
「…裏切られた者は、その辛さを知っているからな」
 グラスを口から離した時には、もういつもの穏やかな表情に戻っ
ていた。
「まあ、貴官らのように掣肘してくれる部下がいるのだから、あの
男もやり過ぎるということもないだろう」
 ヴァノンも、瓶を戻しながら努めて明るく言った。
「そうですね。ニンリル中将を月まで派遣したのです。本気でラグ
ランジュ軍への反抗を企図し始めたと見てよいでしょう」
「そうだな。グラディウスとかいったかな、新型機も配備される。
月面に3個艦隊では、彼らも簡単には手を出せまい」
 アドリアンも今度は自信に満ちた笑顔で受ける。だが、ふと顔を
曇らせる。
「そうそう、貴官に聞こうと思っていたのだが、例の開戦理由とな
った総帥のご令孫の拉致事件、あれはどうなったのだ?」
 出立直前の会議でも話題に上っている。
 ニンリルはその経緯をかいつまんで話して聞かせた。そして、最
後に付け加えた。
「…ですが、どうも拉致という表現は正確さを欠くようです」
「結果として連邦軍は増強計画半ばで開戦を迎えた。SS12への
追放、そして拉致が予定の行動とは思えんな。現にアビーのALF
は、増備が完了せぬうちに出撃し、あの有り様だ」
 不意にヴァノンが身を乗り出した。
「ところで、拉致というは正確さを欠くと言いいましたが、どうい
うことですか?」
 ニンリルはそのヴァノンのグラスにワインを足しつつ、口を開い
た。顔はアドリアンを向いている。
「ここに来るまでの間に、アーマンド大将から非公式に調査の経過
報告を頂きました。それによるとシャルレイン嬢は、自ら逃亡を図
ったということになっています」
 それを聞いたアドリアンが笑いながら髭を撫でた。意外そうな表
情は見せなかった。一方でヴァノンは虚を衝かれたような顔をした
が。
「あのお嬢さんのお転婆も治っていないと見える。普段はおとなし
い娘なのだがな」
 ニンリルはヴァノンと顔を見合わせた。ヴァノンが意外そうにア
ドリアンへ問うた。
「大将はご存知なのですか、シャルレイン嬢を?」
 アドリアンは軽く笑ってグラスを掲げ、中の液体越しにヴァノン
の優しげな顔を見た。赤いフィルターのかかったそれが、何となく
不吉なもののように思われて、グラスを置いた。
 そして今度はニンリルを見やる。
「あまり幸福な家庭環境で育った娘ではないのだよ。早くに両親を
亡くし、祖父はあのように厳格だ。しかも、生まれたときから各地
を転々とし、ようやく地球へ腰を落ちつけても、戦いの連続だ。よ
くもあれだけ素直に育ったものだ」
 どことなく遠い目でアドリアンは語る。
「無事に暮らしていればよいが…」
「何故、追放を?」
 ヴァノンはニンリルの方へ身を乗り出してきた。答えたのはアド
リアンであったが。
「総帥の意思に反して和平を主張したから、といわれているが、実
際はどうか…。親子、ではない、祖父と孫の問題だから、他人がと
やかく口を出すこともないと思って詮索はせなんだ」
「そして、彼女がSS12の宇宙港で逃亡を図った際、それを助け
た少年がいたそうです。一度は捕捉したものの再度見失い、以来、
2名の消息は不明です」
 ニンリルは話を進めた。ヴァノンは小さな目をニンリルへ向けた。
「その少年とラグランジュ同盟の関係は?」
「これといった繋がりは判明しなかった。彼の名は…何といったか
な。思い出せないが、両親は10年程前に木星で行方不明、宇宙港
の税関職員の叔父夫婦が保護者になっていた。どちらも現段階では
ラグランジュとの繋がりは、極めて薄い。…もっとも行方不明の両
親が関係者という可能性は否定できないが」
 そこで喉を湿らすためにグラスに軽く口をつける。
「少年は、友人は人並みにはいるものの特に親しくしている者はな
く、学校でもそれほど目立つ存在ではなかったらしい。平々凡々を
絵に描いたような存在だそうだ。全て、アーマンドからの情報だが」
 ニンリルはヴァノンの目を見返して答えた。それを受けて、ヴァ
ノンは注意深く口を開いた。
「では、一件の黒幕がラグランジュ同盟という証拠はないのですね」
 ヴァノンの問いに軽く頷く。
「しかし、あの時以降、かなりの規模で捜査が行われた。にも関わ
らず、未だ行方不明ということは、ある程度の勢力内に取り込まれ
たと考えるべきだ。そして、当時も今もSS12近傍において、連
邦に拮抗しうる勢力と言えば…」
「ラグランジュ同盟しかないか…」
 アドリアンは両手でグラスを抱えて、押し黙った。
「しかし、ニンリル中将。彼らがシャルレイン嬢を確保しているの
なら、何らかの形で政治的に利用するはずではないのですか」
「そうだ。アーマンドもそこがネックだと言っていた」
「今のところそのような動きはないですね。まだその時期ではない
のか、あるいは…」
 口をつぐむヴァノンの視線の先で、アドリアンは無言で瓶に手を
伸ばした。そして、軽く顔をしかめて、残りわずかなワインをグラ
スへ注いだ。
 空になった瓶を覗き込みつつ、口を開いた。
「材料のない推測は空想でしかない。まずは、我らの手の内にある
問題を考えようではないか」
 時勢や話題のせいもあり、少々の緊張感はあったが、ニンリルに
とっては久しぶりの心地のよい会話が、3人の間を流れつづけた。
それは彼らにとっての、ほんの一時の憩いの時であるのだろう。彼
らは、それが分かっているのか、その時間を惜しむように、長く、
楽しげに語りつづけていた。

 同じ頃、アポロ市外縁部の地下に建設されたLH社の工場では、
オフィーリアの修理が急ピッチで進められていた。
「また戦場へ出られれば、あの白い戦闘機に、シャルレインに逢え
るかも知れない…」
 金色の装甲板にライトの光を鈍く反射させつつ修理を受けるオフ
ィーリアを、ライルは邪魔にならない位置に立って見上げていた。
 本来なら数日は入院して静養しなければならないのだが、月面へ
の移送の間に体力はほぼ回復しており、先ほどの検査でも、日常生
活にはほとんど支障がない程度の回復が認められた。そこで病院を
抜け出して、こうして愛機の修理を見守っているのである。
 その脳裏には、自分を追い詰めた黒と白の戦闘機の姿が焼き付い
ていた。
 そして、戦闘の最中に聞こえた名前と、声。
「シャルレイン…」
 懐かしい名前を再度口に出してみる。
 幼い日の記憶が、手を伸ばせば届くような気がした。
 だが、仮にそうだとしたら、ふたりの間の距離は、とてつもなく
遠いものであることを認めることになってしまう。
「なぜ、叛乱軍に…」
 誰に向けた問いであっても、彼の足元の月は黙して語らない。
 沈黙の衛星は恒星の光を受け、あくまでも静寂に輝いていた。そ
れは、残照を映し出す鏡である。自ら光らぬ、過去の輝きをそのま
まに投影する、虚妄と沈黙の鏡。
 彼方に蒼き宝石を望みつつ、月の時間は漠々たる闇へと沈もうと
していた。

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