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「シャルレイン…」
 静かなる輝きが、互いのヘルメット中を透かす。彼の疑念は確信
へ変化した。
「なぜだ…」
 そして、蒼い光の中で、彼女は−
「…ライル」

天翔ける騎士 第9章「それぞれの行く先は」

Aパート



"Moon Atack!" A-Part


 そこには、見知った顔があった。
 鋭さを増し、より精悍になったその顔は、自分のよく知るものだ
った。だが−
 いや、だから−
「シャルレイン?!」
 次の瞬間、ライルは宙へ突き飛ばされていた。両腕で胸を突かれ、
そのままシャルと彼女の乗るエヌマから離れていく。
「なぜだ!」
 声は届かない。
 月光に照らされながら、彼は暗黒の淵へと沈んでいった。
「なぜだ、シャルレイン…!」

「今ごろ来たって…遅いよ…」
 胸元に手を当てる。
「あの時に…そしたら」
 シャルは声を詰まらせる。ハッチを開けたままエヌマのコックピ
ットに収まって、その先の宇宙に瞳をこらした。
「わたしにはもう…いるから」
 体にわずかに残る、彼の体温を感じながら−
「もう、出会ってしまったから…」
 それをかき消すように、彼女は叫んだ。
「−だから、あなたはもういらない!」
 しかし激情は、一瞬のうちに潮が引くように、急速に別の感情に
取って代わった。
「…セア−」

「状況は!?」
 相変わらずフォークを握り締めたまま、アークライトが立ちあが
った。
 レーダー画面を映したスクリーンの中央部に巨大な雲−電子的な
ノイズが広範囲に広がっているもの−が見える。敵艦隊中枢部に突
入した戦闘機隊とは一切連絡が途絶し、もちろんレーダーでも見え
ない。
「強力なノイズにより依然モニター不可です」
「どうやら、雲の中では電子機器が死んでしまっている様子です」
「カーツのEMPだな、これは」
 タリスが呆れたような声を出した。
「封印していたはずだが…」
「とにかく、状況の把握が最優先だ。偵察機を出せ」
 アークライトはフォークを振って指示を出す。
「リー艦隊の移動予定時刻ですが、どうしますか?」
 通信士が、振り返った。アークライトは再び椅子に座って腕と足
を組む。フォークは指揮卓へ投げ出した。
「どう思う、タリス?」
 視線を動かさずに傍らに問う。タリスも視線を動かさず、至極冷
静に口を開いた。
「敵に何らかの被害が出ていることは確かだ。『見えない』以上は、
現場に近づくのが最良の手段だな」
 アークライトはそれを聞いて軽く息を漏らす。
「そうだな。目で見るのが一番早いか」
 そして艦橋に響く声を上げた。
「リー艦隊に伝達。予定通り月面方向から回りこみ、月方面を遮断
しろ」
 タリスが続けた。
「本艦隊も前進する。偵察機からの報告が入り次第だ。用意してお
け」
「了解」
 通信士が連絡を送る間、航海士や操舵士が進路を策定する。
「提督、戦闘機隊の回収はどうしますか?」
 艦長が背後を振り返った。その視線の先でアークライトが軽く笑
う。傍らのタリスは、相変わらず不動の姿勢でスクリーンを見てい
る。睨んでいるわけではないが、傍から見れば険しい表情に見える
かもしれない。
「こちらから迎えに行くんだ。回収はそれからで構わん」
「リー艦隊、移動を開始。敵右翼部隊を牽制しつつ、月面方向を遮
断し始めました」
 その報を受けて、アークライトが身を乗り出す。
「敵の動きは?」
「右翼に若干の混乱が見られますが、その他は変化ありません」
「やはりな…」
 タリスが嘆息に似た呟きを漏らす。アークライトがタリスの方も
見ずに応えた。
「読んでいたか」
「月面へ後退するには隙がありすぎたからな。アークライト、敵艦
隊の攻勢に注意しろ。おそらく全力で打ってくるはずだ」
「分かっている。受け流して逆に追いこむとするか」
「偵察機部隊より入電、『雲』が晴れていきます!」

「どうなってるんだ?!」
 まったく反応しない機器を叩いて、セアは罵った。金色のオフィ
ーリアを射程に収めた瞬間、全ての電子機器が沈黙してしまった。
当然エンジンも停止し、完全に漂流である。
 開け放たれたコックピットハッチの外では、時折戦闘と思しき輝
きが望めた。
「…どうしよう」
 途方に暮れて天を仰いだ視線の片隅で、何かが光った。その光は
こちらへと近づいてくる。接近に従って、それは光からやがて形あ
るものへと姿を変えていった。
「エヌマ? …違う、あれは」
 エヌマに似たシルエットながら、諸所で異なるデザイン。出来損
ないの天使をを想起させる、妙にゴテゴテした機体である。
「K4! カーツなの?」
 この状態で唯一動ける機体、つまり事態の張本人であるK4がフ
ラスの前へと現れた。フラスに吸着式のワイヤーを放って、お互い
を固定する。
「セア、大丈夫?」
 ハッチを開けて出てきた人影が、セアにヘルメットをぶつけた。
無線は使えなくても、ヘルメットを密着させれば振動で会話ができ
るのである。
「あ、えと、急に動かなくなっちゃって…って、どうしてK4は動
けるの?」
 K4のパイロット、カーツの息づかいを聞きながら、セアは答え
る。
「ごめんね、EMPを使っちゃって」
「EMPって?」
「…えーと、簡単に言うとノイズを飛ばして電子機器を無力化する
武器かな」
 セアは肩を落とした。
「じゃ、これってカーツのせいなの?」
「わたしじゃなくて、EMPのせいね」
 責任逃れを試みるが、セア相手にやっていても仕方がない。
「とにかく、曳航できるだけ引っ張って戻りたいのよ。シャルちゃ
んはどこ?」
「分からないよ。誰かのせいで、急に全部の機械が止まっちゃって」
 憮然として言い返す。
「…近くにはいたの?」
「止まった時には、ずぐ近くにいた」
 怒ったように言う。
「そう、それならすぐに分かるわ」
 ポンとセアの肩を叩いた。
「…レーダーも使えないのに?」
「頭を使いなさい」
 かつてよくそうしたようにセアの頭を軽く小突くと、カーツはそ
のままフラスのコクピットに収まる。
「EMPを食らった位置と、その時点でのベクトルが分かれば簡単
に逆算できるでしょ?」
 電子機器とはいえ、生命維持に必要なものは万一を考えて厳重に
シールドされている。航法システムは止まってしまったが、最低限
のコンピュータシステムは、なんとか生き残っていた。
「ログだけちょうだい。あとはこっちで計算するから」
 カーツはそう言って、フラスの端末にストレージを押し込んでコ
ピーを取る。
「…そういえば、曳航するって言ったけど、K4で2機も3機も引
っ張れるの?」
「止めるときが厄介だけど、引っ張るだけならできるわよ。慣性の
法則ってやつね」
 ヘルメットに包まれているので表情は分からないが、彼女は微笑
んで言う。
「それに、艦隊も回収に向かっているはずだから、少しの辛抱よ」
 カーツは手早くストレージを取り出すと、フラスの機体を蹴って
K4のコックピットへと戻っていった。セアは、カーツの後ろ姿を
見送りながら、開け放たれたハッチから始まる無限の空間を、ただ
眺めるしかなかった。
「…シャル」
『…あなたは、間違ってないから。わたし、信じてるから』
 突然彼女の声が響いた。
 それは、戦闘の最中に聞いたはずの言葉。
「どうして、思い出したんだろ?」
 何かが、心に引っかかった。
「どうして、あんなことを言ったのかな?」
 理由のない疑問が、渦巻く。
 体は弛緩していたが、意識は鋭くなって−
「教えてくれるかな、シャル…」
 セアは目を閉じた。

「そっか、漂流してるんだ、わたし…」
 全ての機器がブラックアウトしてしまったコックピットで、彼女
は他人事のように呟いた。星々の光が、そして時折思い出したよう
に輝く戦闘と思しき光が、暗闇に慣れた瞳を突き刺す。
 もう月は見えない。
「セアも漂流しちゃったのかな…」
 シートに体をあずけた。
「やだな、せっかく…」
 笑みを浮かべることは出来たが、視界が少し滲む。
「せっかく、あなたに…セア−」
 ヘルメットの中に、水滴が躍り出た。
「もう、会っちゃいけないのかな…」
 声が声にならない。
「もう、帰っちゃいけないのかな…」
 天を−何が見えるわけでもないが、天を仰ぐ。
「わたしが、いけないんだもの−」
 がっくりと、首がうなだれた。
「でも…わたしの願いは−」
 シャルは−静かに目を閉じた。
 そして。

 フィィィィィィン…

 暗闇の中で、何かが動き出す。
「「え?」」
 疑問符に答えるように、今まで死んでいたコックピットの諸装置
に光が灯った。

『どうしたの、セア?』
 死んでいたはずの無線から、カーツの声が響いた。
「分からない! でも−」
 無意識に指が踊って、再起動のシークェンスを実行する。エンジ
ン、レーダー、航法装置、火器管制…全て正常だ。
「動くよ!」

「ありがとう、エヌマ…」
 息を吹き返すコンソールに、そっと唇を寄せた。
「わたしには、まだ帰る場所があるんだね」
 ハッチを閉じる前に、彼女は彼と、彼の機体を探そうとした。
「おじいさまの道を認めるわけにはいかないから−。わたしの居場
所はそこじゃない」
 彼女は、自ら選んでそこを逃れた。
 彼女は、自ら望んでここにいる−と思う。
 金色の翼は、もう視界には無かった。
 月光すらも、彼女の目には見えない。
「ごめんなさい…ライル」
 白き翼は、身を翻した。
「もう、あなたと一緒にはいられない。だって−」
 彼女は−
 微かな笑みを浮かべる。
「もう、いるから…」
 先ほどの慟哭とは違う。彼女は、瞳を伏せることなく、唇を歪め
ることなく、そう言えた。
「もう、迷わないよ」
 加速する−星々の海を翔ける感覚が、堪らなく心地好い。
 これ以上のものがあるとすれば、それは、彼と共に翔ける瞬間。
 月光ではなく、陽光を浴びて、彼女は走った。他でもない、彼の
もとへ。

『ごめん、カーツ、他のみんなを助けてあげて!』
 いつの間にか回復した無線が、怒鳴り声を上げる。
「なに、セア、どうしたの?」
 それに答えることなく、フラスが急に動き出した。
「きゃっ!」
 ワイヤーで繋がっているため、フラスが動けばK4も引っ張られ
て動いてしまう。カーツは慌ててワイヤーを切り離して、フラスに
引っ張られるのを止めた。
「セア…」
 何とか落ち着いたコックピットで、カーツは飛び去っていくフラ
スを眺めていた。
「急に動けるようになるなんて…」
 EMPは強力なノイズを飛ばして電子機器を無効化する兵器であ
る。それは、いわば電子回路を焼き切ってしまうことである。シー
ルドされていればその限りではないが、基本的に電子回路は「壊れ
て」しまう。
 にも関わらず、フラスは動き出した。
「フラスって、一体何なの…」

「この感じ…やっぱりシャルか!」
 言いようのない感覚に引かれ、フラスを走らせる。
 周囲には行動不能になった敵味方の機体が散在していたが、それ
らが視界に入ることもなく、彼はひたすらに黒き鳥を羽ばたかせる。
「よく分からないけど…僕を呼んでいる」
 ズキっ。
 突然、激しい痛みが、頭の中を駆けめぐった。それは治まらず、
より激しく彼の頭を打ち付ける。その度に、脳裏には無数のイメー
ジが瞬いた。

 宇宙港での出会い。
 逃避行。
 宇宙に投げ出された彼女を救うために乗った、このフラス・ナグズ。
 初めての戦い−そして初めての戦果。
 彼女を守るために決意した戦い。
 魂の断末魔。
 彼女の抱擁と涙、そして決意。
 不思議な感覚。
 同調。
 宇宙を背にした彼女。
 感謝の言葉。
 時折見せる辛そうな−本当に辛そうな表情。
 はにかんだ笑み。
 赤く染まった頬。
 すこし怒った顔。
 そして−涙。
 柔らかな−。
 暖かな−。
 穏やかな−。
 そして、激しい−。

「…なんだ、これ」
 激しい頭痛に視界を霞ませながら、何かに導かれるようにフラス
を操る。
「僕の中にある、シャルの、記憶だ−」
 ほんの2ヶ月に満たぬ間の、それでもかけがえのない、大切な記
憶。脳全体が圧迫されるような、圧倒的な痛みの中で、必死に彼は
その先にあるものを掴もうと手を伸ばした。
 白く。
 優美で。
 そして軽やかな。

「エヌマ・エリシュ!」
 その機影に、セアは目を見開く。頭の痛みは、それが幻影であっ
たかのように消え失せた。
「シャル!」
「セア!」
 無線から、安堵の声が響いた。
「大丈夫だった、セア?」
 その声が、セアの心に染みわたる。
「うん。シャルは?」
「わたしも大丈夫。−セア」
 改まった口調に、セアは心臓を跳ね上がらせた。
「…なに?」
「ありがとう−」
 それは、言葉ではなかった。
 彼女の口から発せられた空気の振動を、機械が感知し、それを電
気信号に変換し、宇宙空間を伝わり、機械の作用によって再び空気
の振動へ変換され、彼の耳に届いたという点において、それは言葉
以外の何者でもない。
 しかし−。
 そうであっても、それは言葉以上のものであった。
「シャル…」
 彼女が微笑んでいるのが分かった。
 だから、彼も微笑んだ。

『…ア、セ…、聞…える…』
 無線が鳴る。
『−セア、聞こえるか?』
 激しい雑音混じりの音声が、数瞬後には聞き取れるくらいにクリ
アになった。
「あ、はい、聞こえます。アークライトさん?」
『そうだ。カーツェットから聞いた。まだ動けるんだな?』
「はい、大丈夫です」
『今から艦隊が全面攻勢をかける。それまで、ほんの少しの間でい
い。前線を維持できるか?』
「今、動ける戦闘機は敵も味方もほとんど周りにいないから…」
 シャルの呟きを聞いて、セアが首を傾げた。
「もしかして、キーツさんたちも?」
『彼らも動けない。カーツには回収に回ってもらうから、君たちし
かいないんだ−拒否権は認める。頼めるか?』
「いけるよね、シャル」
「うん−」
 その後に続けようとした言葉を、彼女は飲み込んだ。一呼吸置い
て、語を継ぐ。
「…アークライトさん、すぐ来てくれますよね?」
『ああ、10分もかからない。トゥアンの艦隊も側面から仕掛ける。
大丈夫だ…シャルも無事なのか?』
「はい、大丈夫です」
「やりますよ、アークライトさん」
「待って、セア」
 無線を切ろうとしたセアを止める。
「あの、わたしたちの位置は分かりますよね?」
『ああ。トレースされている』
「もしあれば、何か武器を出してくれませんか?」
 タリスや艦橋のスタッフと何か話している気配がしたが、すぐに
声が戻る。
『…分かった。すぐに出す』
「お願いします」
『こちらこそ、頼むぞ』
 無線が切れる。姿こそ見えないが、互いに頷き合う。
「いこう、シャル」
「ええ、セア」

「メガキャノン、射出!」
 アルマリック艦橋で、オペレーターの声が響く。
「続いて、エヌマL型装備、射出!」
 左右のカタパルトから前方へ消えていく光を見ながら、アークラ
イトは立ち上がった。
「全艦発進。味方戦闘機を回収しつつ、敵を叩け!」
 アルマリック以下、アークライト麾下の艦隊が、整然と前進を開
始した。

「アークライト艦隊、前進を開始しました」
 司令官席にふんぞり返っていた男が、居住まいを正した。
「ようやく動き出したか…」
 ポンと膝をひとつ打って、立ち上がった。
「こちらも行くぞ。側面に食らいついて、月方面を完全に遮断する」
 彫りの深い顔に、微かな威厳を滲ませて、彼、リー・トゥアンは
命じた。輝く月を背に、彼が座乗する超大型攻撃母艦「フューネラ
ル」と、それに率いられた艦隊が、動き出した。
 「フューネラル」は他の艦艇とは異なり、もともと戦闘用に作ら
れた艦ではない。その前身は、木星で採取されるヘリウム3を地球
圏へ運ぶことを目的に建造された、超大型の輸送船「ジュピターW」
である。地球から木星までを無補給で踏破するだけの航行能力。行
きは木星圏に必要な資材や物資を、帰りは液化され容積を大幅に減
らされたヘリウム3を積載できるだけの、大容量ペイロード。小惑
星帯の無数の石ころや木星圏の高重力に耐えうるだけの強靱な艦体。
それらを備えた艦を戦闘用に改装することは、規模としてはともか
く、技術的にはそれほど困難ではなかった。結果、「フューネラル」
という名を与えられたこの艦は、戦闘機を大量に搭載でき、同時に
戦艦以上の火力を備えた「攻撃母艦」として、ラグランジュ軍に参
加することとなった。
 今フューネラルは、主の指揮の下、その持てる力をニンリル艦隊
に叩き付けようとしていた。
「敵部隊、射程まであと50」
「全砲門、開け。対艦砲撃戦用意」
 フューネラル艦長代理が、命じた。リーの本来の地位はフューネ
ラル艦長である。しかし、テラ討伐先遣艦隊司令官として艦隊の指
揮を執る必要から、艦長の職務は代理に任せていた。
「敵、レッドゾーン!」
「撃て!」
 だだっ広い艦橋に、リーの声が響く。
 月方面を遮断するように回り込んだリー艦隊から、ニンリル艦隊
の側面へ、高密度の火線が放たれた。他の艦艇からの砲撃もあるが、
フューネラルからの砲撃の量と密度は、圧倒的なものがあった。
「全カタパルト展開。戦闘機隊、発進準備」
 砲撃の合間を縫って、戦闘機隊が断続的に飛び出していく。
 通常、艦艇の持つ戦闘機用カタパルトは多くて2本や3本である。
しかし、フューネラルは発進用に16本ものリニアカタパルトを有
していた。超大型攻撃母艦と称される所以である。その圧倒的な火
力は、ニンリル艦隊の横っ腹をいとも易々と切り裂いていた。
「とっととカタを付けないと、月からの援軍が来る−急げよ、メリ
エラ」

「月方面からの攻撃です!」
 ニンリル艦隊旗艦「ハルモニア」の艦橋に絶叫が上がった。月方
面を遮断されただけでも動揺は大きかったが、さらに攻撃を受けて
はいかんともし難い。
「狼狽えるな、予想のうちだ」
 キッと声の主を睨み付けたものの、ニンリルも叫びたい気分であ
った。
「あの火力…バケモノか」
 丸顔を苦々しく歪め、それでも艦隊を指揮する手を緩めない。じ
わじわと出血を強いられる側面を気に掛けつつ、ニンリルは必死に
後退の道を探っていた。
「…『雲』の正体は分かったか?」
「強力な電子ノイズ−EMPだと思われます」
 小声で尋ねたニンリルに、今まで戦況の分析を行っていた幕僚が
答えた。
「被害は?」
「前線の戦闘機隊は軒並み行動不能です。艦艇も、移動はともかく
戦闘は難しいはずです」
「戦闘機隊の回収は可能か?」
「やられたヤツは、漂流するだけですからね…駆逐艦を回しますか?」
 答えようとしたニンリルの耳朶を、新たな叫びが打つ。
「月方面は、完全に包囲されました!」
 ニンリル艦隊に反撃の暇を与えることなく、リー艦隊は完全に側
面へ食らいついた。
「…やるな、ラグランジュ艦隊」
 爪を噛む。
「戦闘機隊の回収に拘っては、後退の機会を失います」
 背後から幕僚が囁いた。
「…月側は速やかに撤退だ。残存艦艇は全力で援護。衛星軌道へ後
退しろ」
 指揮卓に手をついて立ち上がった。
「衛星軌道より、ハカム艦隊の来援を確認!」
 瞬間、艦橋が沸いた。
「来援の数は?」
 却って冷静さを取り戻して、ニンリルは問う。
「5隻です。巡洋艦1に駆逐艦4」
 途端に落胆の声が上がった。
「…来援というより水先案内だな、ハカム」
 この状況で先導をしてくれるだけでも有り難いが、どうしても素
直に感謝できなかった。
「提督、戦闘機隊の回収は!?」
 艦橋の前部で声が上がるが、ニンリルは無視した。
「側面部隊、撤退開始しました」
「敵の動きは?」
「散発的に攻撃がありますが、追撃の様子はなし」
「全艦、砲門開け。正面に浴びせた後で、全速後退だ」
 前方のスクリーンを睨み付けて、ニンリルは命じた。丸顔が、い
つになく厳しくなっている。
「警戒中のグラディウス部隊より、入電!」
「どうした!」
「戦闘機と思しき高速移動物体2、我が艦隊正面に接近中!」

 前方に機影が見えた。10機以上はいるはずだが、そのバックの
艦隊が邪魔で正確な数は分からない。
「セア、もうすぐだよ−あと30秒」
 シャルがレーダーとモニターを交互に眺めながら、注意を促した。
「分かってる…」
 上の空で答えて、モニターの表示を凝視する。
「来た!」
 どちらが叫んだのかは分からないが、言葉と同時に黒と白の機体
が大きく舞った。背後から飛来したふたつの物体と、黒と白の機体
がそれぞれ合体する。
「フラス、ドッキング完了」
「こっちも。L型装備って何かしら?」
 首を傾げるシャルの視界に、警告表示が飛び込んできた。
「セア、来るよ」
「うん、気を付けて、シャル」
 返事の代わりに、一段と加速する。
 それに負けじと、黒い機体も花が咲いたような噴射を残して増速
した。
 その先に現れたのは、大型の戦闘機である。通常の戦闘機を凌駕
する火力で、侵入者を襲う。
「新型?!」
 白い機体−エヌマ・エリシュは横滑りするように機体を傾けると、
機体下面に装着したばかりのビーム砲が火を噴いた。その軸線上に
いた1機を蒸発、その近くの2機を爆発させたが、その他は無傷だ
った。無傷の敵機から、霰のごとくビームやミサイルが放たれる。
しかし、エヌマはそれを踊るようにかわして、さらに高出力のビー
ムを、ミサイルを放った。エヌマに翻弄される戦闘機部隊の裏をか
くように、敵陣の深いところに黒い機体が出現した。
 フラス・ナグズである。
 それを確認する暇さえ与えず、フラスは機体下部のメガキャノン
から、極太のビームを放った。エヌマも、ミサイルポッドから斉射
を行う。小さな火球が無数に生まれる中を、光の槍が一直線に敵艦
隊まで伸びていった。
 そして、閃光。

「グラディウス部隊、くそ、おそらく全滅!」
「前衛駆逐艦、1隻撃沈、3隻被弾うち大破1、巡航艦も2隻小破
です!」
 ギリ。
 口の奥でいやな音がした。
「ラグランジュの黒い鳥と、白い妖精…」
 血を吐くような呟きは、激しい振動によって途切れた。スクリー
ンは、高密度の砲火に彩られていた。遠くで近くで、光の球が生ま
れては消える。
「敵、正面部隊による攻撃です!」
「だめです、前衛が保ちません!」
「全速後退だ、急げ!」
 声を裏返しながら、ニンリルは怒鳴った。
「とにかく、逃るんだ!」
 敵が月面攻略を目指している以上は、深追いはしないはずだ…。
 希望的観測が、どうしても出てしまう。
「完敗だ…」
 それでも、うなだれることは許されなかった。ニンリルは毅然と、
前を向き続けた。

「敵、撤退していきます!」
 艦橋で沸き上がる歓声を抑えて、アークライトは立ち上がった。
「まだ油断するな。逆撃に注意しつつ戦闘機を回収だ」
 そして、気が抜けたように、椅子に座り込んだ。
「まだ緒戦もいいところだぞ、アークライト」
 タリスが、アークライトを見やりつつ、言う。
「まだ月面には2個艦隊いる」
 それにため息で答えた。
「相手がニンリル艦隊では、気も遣う。それで、予定は?」
 最後の台詞は、かなり声を潜めていた。
「…変更はない。艦隊の出方にもよるが、上空で合流だな」
 そうか、と頷いて正面のスクリーンに目を凝らした。
「月面、か…。これからが本番だな−」
 タリスは沈黙を以て、それに答えた。
 彼らの眼前には、金色に輝く世界が広がっていた。目的地は、す
ぐそこであった。

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