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天翔ける騎士 第9章「それぞれの行く先は」
Bパート
"MOON ATACK!" B-Part
「ニンリル艦隊は無事に戦場を離脱、衛星軌道へ撤退を開始しまし
た」
のそっと執務室に入ってきた青年は、ただそう言った。
「そうか」
窓の外に広がる平原を見つめていたその老人は、ただそう答えた。
他に言うべき言葉を、何も持たない。それでも、何かを言おうと
口を開こうとした。しかし、その機先を青年に制される。
「…あと3時間で、艦隊の出動準備が完了します」
「私は命じていないが?」
月面駐留艦隊司令官リト・アドリアン大将は、今度は表情を変え
た。窓に映った自分の表情に、自分でも驚く。表情だけでなく、声
色も変わった。
「いずれ命令が下ると考え、越権行為を承知で進めました」
青年、ハーコート・ヴァノン中将は、大きな体を縮めるように答
えた。
「そうか。しかし−」
窓に映ったヴァノンの優しげな表情を眺めつつ、拳を握った。
「…確かに我が艦隊の任務は月面防衛にあるが−」
窓の外を振り仰いだ。
「−ニンリル艦隊を一蹴したあの力…内側から崩されるやも知れぬ」
表情を厳しくし、月の荒涼とした大地を睨む。
「ヴァノン中将」
と、振り向いた。
「戦闘機の回収状況は?」
「概ね終わったようです。回収艦隊と掃海部隊の帰還待ちです」
そこで思い出したように付け加えた。
「そう言えば、オフィーリア−ライル・フォーティマも回収したそ
うです」
笑うべき状況ではないのだろうが、アドリアンは思わず苦笑を浮
かべた。
「ライル・フォーティマか…あの青年もよくよく漂流と縁があるら
しいな」
「ラグランジュ軍とも因縁があるようですね」
ヴァノンも釣られたように微笑んだ。
「ともあれ、貴重な戦力だ。整備は十分にしておけ。無論、人間も
だ」
アドリアンは、人知れずため息をついた。
「分かりました」
「艦隊は、出動準備ができたら知らせてくれ。私が指揮を執る」
ヴァノンがびっくりしたような顔をした。
「何も大将が直接指揮を執らなくとも…私が執ります」
「いや、月面の全戦力を以てラグランジュ軍に対す。私が指揮を執
らないでどうする?」
軽く手を振って冗談めかした。
「そうですね。お願いします」
細い目を一層細めて、微笑む。それを見て表情を崩しながら、ア
ドリアンが付け加えた。
「今は艦隊の発進準備よりも、哨戒機と偵察機の運用に気を付けて
欲しい」
「と、おっしゃると?」
「敵の情報を掴むのが最優先だ。ニンリル艦隊が月から離れてしま
った以上、そちらからの情報は得られない。自前で入手しなければ
な」
「そうですね。早期警戒機をもう1機飛ばします」
「出し惜しみは無しだ。上げられる機体はみんな上げろ。勝てる戦
も勝てなくなるぞ」
ヴァノンは一瞬視線を鋭くしたが、微笑みつつ頷いた。
「了解です。では3時間後にまた報告に上がります」
「よろしく頼む」
「それでは失礼します」
頭を下げて、執務室を出た。
ハーコート・ヴァノンは、アドリアンの執務室から出ると、廊下
で待っていた幕僚と歩き出して、小声で尋ねる。
「市民の様子は?」
「今のところは特に。一部で食料品の買い占め・売り惜しみが見ら
れますが、概ね平静です」
「艦隊の到着に前後して動きがあるはずです。気を付けて下さい」
口調は丁寧だが、声は硬い。
「その場合は、やはり…」
「そのための軍です。秩序回復を最優先にお願いします」
「はい」
神妙に頷く。
「そうそう、買い占めや売り惜しみもやはり今から取り締まって下
さい。動揺の素にもなりかねませんから」
「…特に刑罰規定は無かったはずですが」
「今は非常時です。何なら戒厳令も出します」
「ヴァノン中将、いくらなんでも、そこまでは−」
驚いたように、大男を見上げた。
「ええ、それはあくまで最終手段です。しかし、月面防衛軍の名に
かけて、内側から崩されるような事態は避けなければなりません」
「それは、その通りです」
「であれば、秩序を保つのに如くはないでしょう」
「ですが、さすがに買い占めや売り惜しみを現時点で規制するのは
…それに、自治政府や警察が黙っていません」
幕僚はいやな汗をかいていた。あの優しげな男が、いつになく苛
ついているように見えたのだ。ふと「静かなる颱風」という異名を
思い出す。
「彼らを黙らせ協力させるが、あなたの役目では?」
いつもはにこやかな目が、今だけは笑っていなかった。
「了解しました。自治政府・警察と協力して、秩序維持に全力を尽
くします」
敬礼した部下に、さすがに苦笑が漏れる。
「ええ、お願いします」
「それと、例の組織の件ですが…」
ヴァノンの眉がぴくりと動いた。
「何か分かりましたか?」
「その逆です。この2ヶ月の捜査でも、一切の手がかりがつかめま
せん。捜査班の内部では、存在そのものを疑問視する声も上がって
きています」
「MI社、LH社、鳳技研−人類社会の3大企業ですらラグランジ
ュ軍との接点が皆無ではないというのに、アポロ市やアームストロ
ング市では下部組織すら発見できないというんですか?」
再び上官の逆鱗に触れたことに盛大に冷や汗をかきつつ、その忠
実な幕僚は自らの職務を全うしようと務める。
「巧妙に隠蔽されているのか、あるいはそもそも存在しないのか…」
「存在しないわけはない、と言っているでしょう?」
「はい…資金、物流、人物の面から捜査を続けていますが、どうに
も」
ハンカチで汗を拭っている幕僚を見て、ヴァノンの目が細まった。
「ラグランジュ艦隊が接近している今、何らかの形で動きが活発化
しているはずです。何とか、暴動を未然に防いで下さい」
「了解しております」
「自治政府や警察の反応如何ですが、軍としては予防検束も許可し
ます」
「中将…」
「必要なら、憲兵隊だけでなく、陸戦隊や海兵隊の投入も構いませ
ん」
「…」
言葉を失った幕僚を冷ややかに見やりつつ、ヴァノンは言う。
「あらゆる手段を以てしても、治安と秩序の維持を最優先して下さ
い」
「…了解しました」
軽く頭を下げて去っていく幕僚を見送った。そして、振り返って
吐き捨てる。
「大将は何を迷っておいでか…」
「市民の支持はラグランジュ軍にある…」
アドリアンは机に肘を付き、組んだ手に額を乗せていた。
「艦隊戦に出たところで、下手をすれば帰るところを失う」
重い息をつく。
「それが分かっているのか、ヴァノン?」
息子か孫くらいの年の同僚の顔を浮かべた。そのにこやかで丁寧
な物腰の裏に何があるのか、彼は薄々感づいてはいた。
しかし−。
「いっそ、アームストロング市は放棄するか?」
すでに月裏面のスタフォード市は、実質ラグランジュ軍の勢力下
にある。下手に都市の防衛に固執して戦線を広げるよりは、拠点の
防御に徹し戦力を集中し、最終的にラグランジュ軍を殲滅できれば
それでよい。それができるのは、本隊が合流する前の、今しかない。
だが−。
「それでヴァノンは納得するか?」
自問するが、答えはもう出ていた。
「しないだろうな…」
ニンリル艦隊を失った今、2個艦隊でラグランジュ軍を相手にし
なければならない。数の上ではこちらがやや有利ではあるが、連邦
の精鋭艦隊を次々と屠ってきた相手である。万全の体制で臨むより
他に手段はないが−。
「月面駐留艦隊−月面防衛軍司令官…」
目を伏せた。
「ケムラー提督、どうすればよろしいですか…?」
視界いっぱいに、金色の輝きがある。しかし、彼はその色彩を認
識することもなく、ただ目を見開いているだけであった。
「シャルレイン…」
何度目の呟きだろうか。
外的な損傷はほとんど無いものの、内部の電子機器のほとんど全
てをやられたオフィーリアが修理されていくのを、ライル・フォー
ティマは整備場の片隅に座り込みながら、ただ眺めていた。いや、
眺めているのはそれではない。彼は、ただ、オフィーリアの先にあ
る何かに、じっと目を凝らしていた。周囲の喧噪も、彼の周りだけ
は避けているように見えた。
「シャルレイン…」
何の情感も籠もらない声が、また漏れる。
より深く、より沈んだ声色で、彼は呟いた−。
「ラグランジュ軍が来るんだってよ」
「聞いたか、30隻の大艦隊だっていうぞ」
「あのニンリル艦隊も一撃で退けたらしいしな」
「おいおい、それだけじゃないぞ。火星からの本隊が、今日明日に
も来るって話だ」
「連邦にいる友人から聞いた話では、地球に来る途中でやられたら
しいけどな」
「いやいや、それは逆で、連邦軍は衛星軌道が手一杯で、月面を撤
退するそうだ」
アームストロング市は、表向き普段とあまり変わらない様子であ
った。しかし、街の所々で「ここだけの話」を交わす人々が見られ
た。
余所から聞いた「噂」を流す者、それに尾ひれを付ける者、全く
のでたらめを話す者、様々いたが、彼らの共通点は、誰もが「情報
通を気取っている」ことであった。彼らはひとしきり「情報」を交
換すると、誰ともなしに頷く。
『気を付けよう。何かが起こる−』
そのまま家に帰る者、近くの食料品店に寄って多めの買い物をす
る者、シャトルのチケットセンターへ空席を問い合わせる者、その
反応も様々であったが、それはまだごくごく一部分の現象でしかな
かった−。
市民の大部分は、何ら変哲もない日常を送っていた。連邦による
報道管制もあるが、人の口に戸を立てられるものでもない。無責任
な噂や情報は、確かにあちこちで飛び交っていた。しかし、それで
も多くの人々はごく普通に生活を続けていた。
「まさかドームで市街戦をやるわけでもないだろう、大丈夫だよ」
ケムラー戦争において、アームストロング市はアポロ市と同様、
物理的な被害をほとんど受けなかった。「戦争」がどんなものであ
るのか、それを実際に体験した市民は、それほど多くはなかったの
である。
これが月裏面のスタフォード市では、事情が大幅に異なってくる。
スタフォード市は、コロニー落としによって市街地の8割を失って
いる。当然、市民もその大半が失われた。生き残った人々は、その
自らの体験を以てして戦争の何たるかを知っていた。
実際、アームストロング市で比較的用心深かった人々は、旧スタ
フォード市の生き残りか、その関係者が多かったようである。彼ら
の中には、直接ではなくとも何らかの形でラグランジュ同盟との接
点を持っている者も少なくなかった。もっとも、それは本当に「何
らかの形で接点がある」という程度で、実際の「協力者」ともなる
と、これはなかなかいるものではなかった。連邦軍にすれば、彼ら
がラグランジュ艦隊の月面侵攻に呼応して、市内で破壊活動を働く
のではないかという懸念があったのは事実である。
また後日判明したところでは、ラグランジュ同盟とは直接関係な
いが、複数の反連邦を標榜する武装組織が蜂起を計画していた形跡
があった。それらを勘案して見た場合、結果として、アームストロ
ング市は極めて幸運であったと言えるのだが−。
当然ながらその結果は、まだ少し先にならないと分からないこと
であった。そして、「幸運」と言えるということは、その一方で「不
幸」があることを意味していた−。それが何なのかを知ることもな
く、月は静かにその刻を待っていた。
「…はい。了解しました」
敬礼をして一呼吸置くと、眼前のスクリーンが消灯した。彼は盛
大なため息をついて、振り返った。
「待たせたね」
花の零れるような笑みに、まだ20代半ばと思しき女性スタッフ
は赤面した。
「報告があったのでは?」
怪訝な顔で言われたので、居住まいを正した。
「あ、はい。ニンリル艦隊は無事に交信圏内まで到着しました。本
基地までは30時間の距離です」
「そうか…」
愁眉が曇る。その表情を見て、彼女も胸が痛くなったような気が
した。
「ありがとう。ごくろうさま」
それも一瞬で、笑みと一緒に労いの言葉をくれた。
「いえ。失礼します!」
必要以上に力んで敬礼して、踵を返す。首を傾げてそれを見送り
ながら、彼は先ほどの通信を反芻した。
「…ニンリルを敵に回すつもりか、カウニッツ元帥」
目つきが険しくなる。
「提督、ニンリル提督から通信です!」
司令室の向こうから、呼び声が聞こえた。
「…」
両の頬の皮をつまんで伸ばしながら、アル・ハカム大将は指揮席
へと歩み出した。
「せめて、おかえり、と言わないとな」
「提督、軌道基地と通信、繋がりました。ハカム提督です」
「こちらに回してくれ」
憔悴しきった声で、ニンリルは応えた。
ラグランジュ軍との戦闘から丸1日が経過したが、残存艦艇や生
存者の救出、艦隊の再編成等で、ニンリルは一睡もしていなかった。
部下には交代で仮眠を取るように命じていたが、とてもそんな余裕
はなく、全員が不眠不休で働き続けている。ニンリル一人だけ休む
わけにもいかなかった。それでも、ラグランジュ軍の追撃もなく月
軌道を離脱し、衛星軌道まであと1日前後の距離まで到達、残存艦
艇も掌握できたので、先ほどようやく第1陣が3時間の休憩に入っ
たばかりだった。
味も香りも分からなくなり、眠気覚ましとしてもほとんど役に立
たなくなっているコーヒーを啜りながら、ニンリルは必死に目を開
こうと努力した。
『…ひどい顔だな』
妙に鋭くなっていた聴覚に、僚友の声が飛び込んできた。
「…面目ない」
『相手が悪かった…というのは慰めにもならないけど、とにかく間
が悪かった』
スクリーンの向こうの彼の笑みは、ぎこちなかった。
「何か、悪い知らせでもあるんじゃないか、アル?」
ニンリルは、彼のファーストネームを呼んだ。
『悪い知らせがひとつ、少なくとも良くはない知らせがひとつある』
「悪い知らせから」
あからさまにハカムの顔が引きつった。
『…カウニッツ元帥から命令があった。敗戦の責任を取って、ニン
フ・ニンリル中将を内軌道方面艦隊司令官から解任する』
ニンリルは、冷えてしみじみ不味くなったコーヒーを一口含んだ。
「…で?」
『ニンフは地球防衛艦隊副司令官に、内軌道艦隊の残存艦艇も地球
防衛艦隊の指揮下に入る』
「まあそんなところだろうな」
皮肉っぽく応じる。
「オーンの下にならなかっただけマシだ。いや、君の下でよかった
よ」
吐き捨てるように言われたので、ハカムは軽く拳を握った。
『そうか?』
ニンリルは軽く笑って見せた。
「思ったほど悪くなった。ありがとう」
彼の皮肉につき合う気になれず、ハカムは言葉を継いだ。
『ちなみに、月への援軍の派遣はない』
「−最悪だな」
『だから、悪い知らせと言った』
「月を見捨てるのか?」
『精鋭が2個艦隊いる。そう易々とは負けない』
ハカムは言葉を選んだ。
「しかし勝てもしない。時間稼ぎか?」
ニンリルはそこを突く。
『月ぐらいはくれてやる、と言っていた』
「カウニッツ元帥が?」
『アジェス元帥だ』
「…」
ロクに動かない頭に、何か得体の知れないものが渦巻いていくの
を、ニンリルは感じていた。
『何か言いたいことはあるか?』
「敗軍の将は、兵を語る資格がないよ」
ハカムは、くすと笑って話を進めた。
『もうひとつは、ロンギヌスの完成だ。オーンが自慢げに披露して
くれた。見た目はバベルの塔みたいでとにかく大きいが、要は荷粒
子砲だ。フィールドジェネレーターを搭載した軌道上の反射衛星を
使って、SS1や月面の攻撃も可能とか言っていた…ニンフ、聞い
ているのか?』
頷いていたように見えたニンリルだが、やがて頭が大きく垂れた。
『2倍の敵を相手に被害を最小限に抑えたのは、さすがだ−お疲れ
さま』
優しく微笑んで、通信を切ろうとする。
『おかえり、ニンフ』
スクリーンが暗転する寸前、指揮卓に突っ伏したニンリルの体に、
誰かが毛布を掛けようとしていた。
「やれやれ」
肩を揉みほぐして、ハカムが嘆息する。
「ニンリル艦隊の軌道計算か進路誘導、こちらでできないか?」
オペレーターたちを見回した。
「先導艦隊のデータが来てますから、2時間で全艦の完全誘導プロ
グラム組めます」
航路・誘導担当の部署から声が上がった。
「なら頼む。すこし休む時間を作ってあげないと」
そして、ニンリルの憔悴しきった顔を思い出す。
「哨戒班!」
思わず声が大きくなった。
「哨戒部隊を出して、ニンリル艦隊の援護と補助をしてくれ」
「しかし提督」
後ろに控えた幕僚から異議が上がる。
「無用に部隊を動かすな、との指示が来ていますが…」
ハカムはため息をひとつついた。
「ニンリル艦隊は、我が麾下に編入されることになっている。我が
艦隊の貴重な一部隊だ。その艦隊の航行に万全を期すことの、どこ
が無用か?」
顔は笑っていたが、声は笑っていない。秀麗な−そしてどこか険
のある表情で、幕僚たちを眺め回した。
「いえ…出過ぎたことを」
異議を出した幕僚が頭を下げた。
「こちらこそ。諫言をしてくれるのは、嬉しいことだ」
今度は、本当に笑って、ハカムは答えた。
哨戒部隊の発進を命じて、司令席に背をもたげた。
「ニンフを楔となす−か」
カウニッツの真意が何処にあるか分からないが、ラグランジュ軍
との和議も視野に入れているらしいことは分かった。それはそれで
収穫である。しかし、その手段は、ハカムには到底受け入れがたい
ものであった。
「私が、彼を引き留めなければ−」
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