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天翔ける騎士 第10章「螺旋の歩みの果て」
Aパート
"Earthlight Serenade" A-Part
西暦2191年11月8日は、記念すべき日となった。ケムラー
戦争から4年を経て、連邦軍以外の軍隊が、初めて月面にその橋頭
堡を築いたのである。
「アームストロング市占領」。
その報は一夜にして地球圏はおろか、全人類社会を駆けめぐった。
月面はもちろん、地球圏のマスコミは一斉にアームストロング市
上空からの中継を行い、その光景は繰り返し何度も何度もテレビで
放映された。もちろん、そのマスコミはラグランジュ同盟によって
呼び集められたものだ。
ラグランジュ同盟軍総司令官、ロンデニオン・ファディレを筆頭
に、ツァラ・トリスタ、ローゼム・ローゼンス、ヘルディオ・カス
パー、レオナルデス・ゲゼル、ハーランド・エック、ムラト・セル
タらの艦隊が、次々に月面へと降下する。
「あれが『トリスケリオン』、ラグランジュ同盟軍宇宙艦隊の総旗
艦です。宇宙最大の戦艦のひとつでもあります!」
興奮気味のレポーターの声が、響き渡っていた。周囲の艦艇を圧
倒する巨艦が、画面に映し出されている。ラグランジュ同盟軍総旗
艦「トリスケリオン」。ラグランジュ同盟軍総司令官であるロンデ
ニオン・ファディレの座乗する艦である。宇宙最大の戦艦、という
コピーは決して誇大ではない。「トリスケリオン」よりも大きな艦
が存在することも確かだが、こと「戦艦」に関して言えば「トリス
ケリオン」が最大かつ最強であることに相違ない。当初からラグラ
ンジュ軍の旗艦として建造されただけあって、それに相応しい威容
である。ラグランジュ軍としては、このクラスの戦艦、いわゆる「ト
リスケリオン級」を量産して、連邦軍に対抗する強力な戦力とした
かったのだが、あまりの巨大さと高性能によって、通常クラスの戦
艦に比べて建造期間が大幅に伸び、またコストも相当にかさむこと
となり、未だに2番艦以降の就役の目処が立っていないという、曰
く付きの艦でもある。
「続いて、『ベリス・ベレニス』、第2艦隊の旗艦です。司令官は
…ツァラ・トリスタ提督。さらに、ローゼム・ローゼンス提督率い
る第1艦隊旗艦『ピアス・バトラー』が見えます!」
カメラが捉える戦艦の姿に、レポーターの声が被さる。優美な姿
のトリスタ艦隊旗艦「ベリス・ベレニス」と、無骨なデザインのロ
ーゼンス艦隊旗艦「ピアス・バトラー」が対照的である。この2艦
は、外見こそ大きく異なるものの、基本的には「アルマリック」を
ベースにした「アルマリック級」と呼ばれるクラスの戦艦である。
あまりに突出した性能を持たせたために建造が困難となった「トリ
スケリオン級」とは異なり、量産を意図した範囲内での高スペック
を希求した「アルマリック級」は、順調に生産が行われていた。「ベ
リス・ベレニス」や「ピアス・バトラー」は、「アルマリック級」
の量産が行われる以前に、細部を変更した際の性能変化を確認する
ために建造された増加試作艦であり、そのために外見が異なってい
るのである。性能は「アルマリック級」と同等であり、ラグランジ
ュ軍の中核を成す艦隊の旗艦として、十分過ぎる性能を有している。
息を付く暇もなく、アナウンサーの声が続いた。
「あ、見えました! 9月の開戦以来、連戦連勝。地球圏の守護神
であるメリエラ・アークライト提督の『アルマリック』です!」
そして「アルマリック級」1番艦がネームシップたるこの「アル
マリック」である。地球圏におけるラグランジュ軍の要となるべく、
秘密裏に、しかし可能な限り迅速に建造された艦である。開戦以前
から連邦軍の目をかいくぐって試験を続けており、その成果と、そ
して実戦におけるデータが、火星圏や月面で建造された量産艦に反
映されたのは言うまでもない。
「アルマリック」の開戦以来の戦果をしゃべり続けるアナウンサ
ーを無視するように、そのアルマリックを巨大な影が覆い隠した。
「そして、アークライト艦隊を救った火星圏からの先遣艦隊旗艦。
『トリスケリオン』をも凌ぐ超大型艦『フューネラル』が姿を見せ
ました」
アークライト艦隊の説明を中断して、慌てて「フューネラル」の
解説をする。司令官の紹介を落としてしまったことには気が付いて
いないようだ。
核融合炉の燃料の中でも、最もクリーンかつ扱いやすいヘリウム
3を、遙か木星から運ぶ超巨大惑星間輸送船を強奪し改装した、ラ
グランジュ軍が誇る超大型攻撃航空母艦がこの「フューネラル」で
ある。発艦用に16本、着艦用に8本のリニアカタパルトも持つだ
けでも驚異的だが、戦闘機の点検・整備・保守・改造が可能な設備
を保有するなど、「機動航空基地」とも呼べる艦である。そればか
りでなく、全砲門展開時の形態を見た艦長に「まるでハリネズミだ
な」と言わしめる程の武装を持ち、砲戦能力だけを見てもラグラン
ジュ軍、連邦軍共に敵う艦は多くない。2番艦以降の計画もあるが、
当然ながら建造コスト、そして何より運用コストの莫大さから、計
画見直しの話も持ち上がっているという。
「200隻もの反連邦軍の艦隊が月面に展開するなど、2ヶ月前に
は誰も予想しませんでした。ラグランジュ艦隊の集結によって、事
態が新しい局面に移ろうとしているのは確かなようです」
そこで事前に収録したと思しき映像が終わった。代わって、月面
に集結したラグランジュ艦隊を一望できる宙域に飛ぶシャトルの中
から、レポーターがコメントを述べる。
「ラグランジュ軍の集結により、月面の解放が近く行われるのでは
ないかという憶測が流れる一方で、月面が戦場となることへの懸念
が各方面で噴出しています。連邦軍の対応次第では、これまでにな
い規模の戦闘が行われる可能性があるだけに、事態は予断を許さな
い状況と言えます。以上、月面上空からでした」
「地球圏に集結したラグランジュ同盟軍は、全部で12個艦隊20
0隻以上に及びます。連邦軍の全残存艦艇に比べれば7割程度の数
ですが、これまで僅か1個あるいは2個艦隊で連邦軍と互角以上に
渡り合ってきたことを考えれば、これは圧倒的戦力と言ってもいい
でしょう」
スタジオからの映像に切り替わって、キャスターが努めて冷静な
声で喋る。
「連邦軍はこれからどう出るんでしょうね」
キャスターが傍らの解説者に話を振った。
「そうですね。月面にはまだ残存戦力がありますから、それを糾合
しての反抗となるんでしょうが、数的に不利ですからね。ゲリラ戦、
あるいは地球からの総攻撃という可能性も考えられるんじゃないで
しょうか」
「そうなると、月面が戦場となるということでしょうか?」
「ラグランジュ軍は宇宙市民のための軍を標榜していますから、市
民を巻き込むような戦闘は避けざるを得ないでしょう」
「ですが、実際に戦闘となった場合には、そうも言ってられないと
思いますよ」
「そうですね。ラグランジュ軍が動くとすれば、アポロ市近辺が戦
場となる可能性は大きいですね。現にアポロ市では、避難態勢の整
備が急ピッチで進められていますね。逆に連邦軍が動く時はアーム
ストロング市ということになりますが、こちらはラグランジュ軍が
完全に掌握しただけあって、なかり平静が保たれているようですね」
「今のレポートにもありましたが、月面が戦場となることへの不安
は根強いようですね」
「4年前のケムラー戦争で大きな被害を受けてますからね。例え連
邦に批判的な声が多いとしても、仮に月面で戦闘が行われた場合、
ラグランジュ軍の支持に繋がるか、という問題がありますね」
「結局、やってることは連邦軍と同じではないか、と」
「そもそも月面は、連邦サイドへも相応の理解がありますので、ラ
グランジュ軍を絶対的に支持しているわけではない、という背景も
あります。連邦が宇宙資本の規制を行っているので、宇宙資本を取
り入れているラグランジュ軍を支援している、という側面がありま
すから。ここで連邦が、月面に対してだけでも規制を緩めると、あ
るいはラグランジュ軍排斥の動きも表面化するかも知れませんね」
「月面にしてみれば、連邦軍もラグランジュ軍も関係ない、という
ことでしょうか」
「ごく最近に戦争の被害を直接受けていますから、そう思うのはも
っともだと思いますよ」
「そうですね。現在、月面各都市では、それぞれの市単位で緊急時
の対応を検討しています。ではここで、最も危険性が高いとされる
アポロ市からの報告をご覧下さい」
画面が切り替わるか替わらないかというところで、電源が切られ
た。
「いかんのではないか、この番組は」
リモコンを握っていた初老の男が、唸るように言う。
「そうかね。月面の制圧が近いことは、誰の目にも明らかではない
か」
その対面に座っていた老人が、首を傾げた。
「それはいい。だが、我々が市民を巻き込む戦いをしようとしてい
るようにも取れる」
リモコンを机上に放りだす。
「仕方あるまい。巻き込むのは確かだ。アームストロング市でも死
者が出たのだろう?」
嘲弄の響きに、リモコンを握っていた男の眉が跳ね上がった。
「犠牲者を出したくないという臆病な理由で中立を選んだ者が言え
ることではないぞ」
「臆病けっこう。だが事実は事実だ。第一、陸戦隊が撤退したから
ひと桁で済んだものの、そうでなければ、暢気にテレビを見ている
場合ではなかった」
非友好的な視線が絡み合った。
「だいたい、テレビをプロパガンダにしている点で連邦とやってい
ることは大差ないと思うが?」
「そうだね。この上、内容をいちいち咎めて、自分たちの都合のい
い放送だけ許すのでは、それこそ連邦の悪しき模倣ではないかな。
権力者の自制こそが、宇宙市民主義の理想だったのでは?」
やんわりとした調子で諫める声が上がった。だがすぐに反論され
る。
「綺麗事で勝てるなら軍も必要ない。勝てないからこそ、あらゆる
手段を用いている。武力による反抗を決めておいて、今さらそのよ
うな事を言われるか」
「…すでに放送されてしまったことです。それこそ今さらとやかく
言っても仕方ないでしょう。そろそろ本題に入りませんか?」
鋭鋒を和らげるように、温和な声が割って入った。しかし、すか
さず反撃が入った。
「ウォリンガーくん。君は確かに我々の筆頭ということになってい
るが、あくまで同格であることを忘れないで頂きたい。我々に指図
する権利はないのだぞ?」
ウォリンガー、と呼ばれた男は、ため息をひとつついて、口を閉
ざした。
「ウォリンガーくんは別に指図をしたわけではないだろう。こうや
っていつまでも口論を続けるつもりかね、君は」
「そうだ。だいたい、君が推薦したのはなかったのかな、彼を」
「構わないですよ、ウォリンガーさん。本題に入って下さいな」
「…むぅ」
ひとつ唸ったが、さらに反論する気は無いようだった。
「ありがとうございます−放送の内容や市民の避難の件については、
検討会の方からの報告が来ますので、その時でよろしいでしょうか?」
異論が無いのを確認して、ウォリンガーは続けた。
「では本日の案件ですが、ファディレ元帥から提案が来ております。
−この13人委員会首座の交代についてです」
衝撃は、波紋のように静かに、ゆっくりと広がった。
「すると何かね、元帥は君を盟主から外すと言っているのかね?」
「盟主とは言っても、私は代理ですから。正式な盟主を13人委員
会に、ひいてはラグランジュ同盟にお迎えするということです。こ
の提案は、私も賛成いたしますが、皆さまのご意見をお聞きしたい」
「誰なんだ、新たな盟主は?」
「そんな人材がいるのかな?」
「まさかわたしたちの中から出すわけではないわよね?」
「これ以上委員会を引っかき回されるのは、ごめん被りたいな」
口々に寄せられる質問や意見に、ウォリンガーは少しだけ複雑な
表情をした。
「申し上げにくいことですが、新たな盟主はこのメンバーの外から
お迎えすることになります」
その台詞に、さらに声が被さった。
「では、誰なのだ? それこそ相応しい人物がいるとは思えんが」
「ウォリンガーくんが最適なのは、今でも変わっていないだろう。
これ以上を望むこともない」
「まさか傀儡を据えて、実質は今のままということか?」
明らかに悪意の混じった声もあったが、ウォリンガーは無言で応
じた。やがて一通り声も出尽くしたところで、再び口を開く。
「ひとりだけ、います。地球連邦に対抗するのに、これ以上適当な
人物もいないと考えられます」
そこで台詞を切って、一同を見渡した。温和な表情に、微かな憂
いを湛えて、ウォリンガーはその名を口にした。
薄暗い部屋。
光源がないわけではないが、あまりに弱いため、かえって部屋の
薄暗さを際立たせている。それに大した意味があるとは思えない。
明かりが必要ならもっと明るくすればよい。その必要がなければ、
光源など不要なのだ。理由を強いて挙げるとすれば、それに意味が
あると思わせる雰囲気を醸成するのに役立っている、という程度で
あろう。
その薄暗い中から、どこからともなく音が響いた。薄暗さ故にど
の程度の広さなのか判然としない部屋の中で、音は、静寂が貴重な
ものであることを示すかのように、重く垂れ込めた。世に幾種類の
音があるか数えてみる気にもなれないが、これほど聞く者を不快に
させる音というもの少ない。その異音に導かれるように、弱々しい
光源の中から、ある姿が浮かび上がった。
それは、巨大なチェスの駒。
クイーンの駒であった。大きさは人間の背丈ほどもある。物体と
しては何ら変哲のないもののはずなのに、グロテスクさは禁じえな
い。立体映像であるのは予測がつくが、それでも威圧感は相当なも
のである。クイーンに続いて、ビショップ、ナイトなど、次々にチ
ェスの駒が浮かび上がった。浮かび上がる度に、耳障りな音が木霊
する。
そして、その人ならざるものが、唐突に人語を発する。
「ついに月面上陸を許したか」
明らかにヘリウムか何かで変調させた音声である。不自然な声色
は、だが、この場の雰囲気にはかえって似つかわしかった。むしろ、
チェスの駒が普通の人の声を発した方が、違和感は大きいだろう。
「状況は圧倒的に不利だ。今からでは地球からの援軍も間に合うま
い」
「ニンリルとラグランジュ軍の遭遇戦。予定外だったな。何のため
に月へ送ったのやら」
「予定外の事態はまだあるぞ」
「黒き鳥か」
「まさかポイントバリア実装機を投入してくるとはな」
「まだ不完全ではあるが…。鳳に触発されたか」
異常な声であっても、焦りの色は隠せない。
「マス・ドライバーにレーザードライブ。よくも、ことごとくシナ
リオを無視してくれる。宇宙人どもが」
唾棄するような口調に、別の声が続いた。
「予定外なのはそれだけではない」
「オフィーリアか」
「ライル・フォーティマ。真実に近き者のひとりだな。生きていて
も不都合はない…いや、事こうなっては、貴重な手駒となろう」
不気味な声がやはり不気味に木霊し、どの駒が喋っているのか定
かではない。或いは、どうでもいいのかも知れない。
「さよう。先の戦いで、おそらくシャルレインと接触しているな」
「彼自身、資格を有している可能性がある。ケムラーも知っている
のか」
「シャルレインを有資格者となるべく育てたのだ。フォーティマの
素質に気付かぬ訳はなかろうが」
「だが、連邦がかの資格を生かす術を見出すのは、多少の時間がか
かろうよ」
「サンプルがひとつしか手に入っていない。しかも失敗作ではな」
「聖翼も、ようやく実験機が完成した段階だ。有資格者であったと
しても、その力を発揮することは先になろう。忌々しいことだが」
「然り。今注意すべきはシャルレイン」
「そして黒き鳥を操る者だな」
「もはや月面には拘らぬ。だが、帳尻を合わせることができるのだ
ろうな?」
こればかりはクイーンの駒から発せられたと分かる唐突な詰問口
調の問いは、明らかに老いを感じさせる容貌ながら、意思の強さを
秘めた男−その部屋での異形、つまり人間の姿をしていたマーバッ
ト・カウニッツ地球連邦軍元帥に向けて発せられた。
彼は、少なくとも表面上はその場の異様な雰囲気に圧倒されるこ
となく、静かに口を開いた。
「…ご心配なく。総帥のご意志を受けて、反抗の準備を整えており
ます。早ければ来年早々には趨勢が見えるかと」
チェスの駒に囲まれた人間。明らかに常軌を逸した状況ではあっ
たが、その場には妙に似つかわしくもあった。
「ケムラーに伝えるのだ。背信には相応の報いがあると」
「我々の計画は全て貴官らに任せてある。遂行の任は、権利ではな
く義務だということを忘れるな」
ある意味で滑稽な恫喝と共に、チェスの駒の姿は掻き消えた。そ
して、部屋に明かりが戻る。光の中で見れば、その部屋はそう広く
はない。壁際にいくつかの装置が並べられており、チェスの駒の映
像がそこから発せられたものであることは、想像がついた。
そのひとつを蹴飛ばすと、背後から声がかかった。
「…やはり違約に気付いたか」
何時の間にか、カウニッツの背後にミル・アジェス統合作戦本部
長が立っていた。鉄面皮はいつものことだが、それが今は少し歪ん
でいる。アジェスの関心は、彼らの恫喝の内容にあるようだ。それ
も当然か、とカウニッツは心中で苦笑する。
「シナリオを進行させれば、自ずと袂を分かつこととなる。だが、
総帥の復帰までは何とか保たせたいものだ」
老いを感じさせる声は、いつもよりも疲れたように聞こえた。
「所詮は遺物に過ぎん。敵うはずもない」
カウニッツが嘲笑気味に続ける。鼻から息を抜いて、ゆっくりと
首を回した。微かに空気を震える。それに応じるように、アジェス
は呟いた。
「遺物か。それにふさわしい舞台もあるだろうに」
「鏡の国を模したところで、その主たる連中が、そこに映る自らを
虚像だと気付いておらぬ。『クイーン』がいずれ『キング』の座に
就くのは明白だが、誰が好んで落城寸前の玉座を望む?」
踵を返して、部屋を出ようと歩み始める。背筋を伸ばし、姿勢に
年は感じられない。部屋の中は足音が耳障りだったのに、廊下に出
た途端に絨毯敷きになっている。足音はなく、微かに布の擦れる音
が耳に入ってくるだけだ。誰の設計かは知らないが、意図的な悪意
すら感じられる作りである。それに腹を立てた、というわけでもな
いだろうが、カウニッツが苛立たしげに吐き捨てた。
「その程度のことも分からぬ連中が、我らのバックボーンを気取っ
ている。笑止もいいところだ」
「なるほど、愛想を尽かすわけか」
「だが、彼らの手を連中の血で汚すことは適わぬ。全て我らの内で
終わらせねばならん」
「ニンリルは完全に敵に回ったぞ。わざわざ刺激することもないだ
ろう…それが狙いなのか?」
「彼は楔だ。それに、真の役割を演じてもらうためには、もっと刺
激する必要がある」
その答えを聞いて、アジェスが溜息をつく。表情は変わらなかっ
たが。
ようやく建物の中央部から外壁に面した廊下へ出た。秋も半ばを
過ぎ、そろそろ木々の姿も寂しくなり始めた。ふとアジェスがカウ
ニッツを見やった。
「シナリオは完遂できるのか?」
カウニッツは答えずに、しばし無言の時が漂う。
「ニンリル中将、ロンギヌス、そしてロンデニオン・ファディレ。
小道具は揃ったな。鏡の国の愚か者どもに、それを如何に大道具で
あるかのように見せるか、それだけだ」
カウニッツは思い出したように喋り出した。
「我らのシナリオなど、その程度のものに過ぎん」
執務室の扉を開けながら、カウニッツはアジェスを顧みた。
「まずは、月面か…」
席に着いたカウニッツを横目に、執務室の窓から遥かな大地を見
渡したアジェスは呟く。
「崩壊の序曲だ。我らではなく、連中の」
カウニッツは、皮肉というには淡々とした調子で応じた。椅子ご
と振り向いた彼の視線の先にもまた、広大な土地が広がっている。
その彼方には、巨大な塔のような構造物が微かに見えていた。
「天を向いた聖なる槍か。刺すべき相手は地上にこそいるのだろう
にな」
アジェスは答えなかった。
地平線のごとく広がる地球を眺めていたニンリルに、声がかかっ
た。
「ここにいたのか」
振り返ると、淡い色の髪をした同僚が立っていた。
「−ハカム」
その名を呟いたニンリルは、再び視線を外へ戻した。
衛星軌道から見る地球。漆黒の空を隔てる地平線−まさに地と宙
を分ける線であった。
「カウニッツ元帥から召還命令が来たが、体調不良ということにし
ておいた。それでいいな?」
背を向けたニンリルに気を悪くした風もなく、告げた。
「今は何も考えるな。数日中に連絡すればいいだろう」
返事を待つでもなく、そう言うと踵を返した。その背に、ニンリ
ルの声が被さる。
「済まない…」
「なに、いいさ。どうせ月面防衛に艦隊は出せない。時間はあるよ」
苦笑したような声に、ニンリルはそっと頭を垂れた。そして、こ
ちらも軽く笑う。
「そうか、今は俺が直属の部下なんだな」
「そういうことだ、ニンリル中将。地球防衛艦隊司令官命を以て、
副司令官に3日の休養を命じる」
振り返りつつ、謹厳な口調で言った。
「謹んで拝命します、アル・ハカム大将」
崩れた敬礼をして、ニンリルもそれに応じる。それを見たハカム
が、表情を崩した。
「どうだ、少しは楽になったか?」
「相手がお前じゃなければ、張り倒していたけどな」
ようやく表情を和らげたニンリルの横へ歩み寄って、窓の外を見
る。
「静かだな、ここは」
「皆、規律正しく働いている。勤務時間中にこんな所へ来る奴は、
ここにはいないだろう」
「そうじゃない」
否定したハカムの顔を、見やった。少女のような顔に、深い険が
刻まれている。
「SS12、外軌道、月軌道、月面−地球圏は戦乱のただ中にある
というのに、ここはまだ静かだ」
ああ、と得心して、視線を戻した。
「月面を陥とせば次は地球だ。遠からずここも物騒になるよ」
「そんなことは、させない−。させたくない。…させたくなかった
が−」
「月面の撤退命令は?」
「すでに5回、発信した。いずれも応答はない。妨害で届かないの
か、或いは…」
ハカムは唇を噛む。友人の表情を見て、ニンリルは努めて明るく
言った。
「大将もヴァノンも優れた指揮官だ。最善と思う行動をしてくれる
はずだ。気に病むことはない」
そのニンリルを、ハカムは静かな眼でじっと見つめた。ややあっ
て根負けしたように視線を外す。
「そうだな。ありがとう、ニンフ」
肩をひとつ叩いて、笑って見せた。
「どうだ、少し早いが昼食でも?」
「いいのか?」
「何せ、ここにいる連中は規律正しく働いているからな。早めに行
かないと食堂が混んでしまうよ」
促すハカムに、ああ、頷いて従う。去り際、振り返ると、地と宙
の境目は雲にまぎれて霞んで見えた。
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