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天翔ける騎士 第10章「螺旋の歩みの果て」
Bパート
"Earthlight Serenade" B-Part
11月12日。ラグランジュ同盟軍は、アームストロング市内、
及び周辺の連邦軍関係者の掃討を終了し、同市を完全に掌握した。
制空権も確保し、アームストロング市上空には交代で艦隊が遊弋し
て、偵察と警戒を行っていた。
翌13日、ラグランジュ同盟軍司令官、ロンデニオン・ファディ
レは主だった将官を集め、月面到達の労をねぎらった。
「アークライト提督、そしてリー提督も、よくやってくれた。貴官
ら働きがあればこそ、月面解放を実現することができた」
好々爺、というのは威厳がありすぎるファディレは、アークライ
トとリーを賞した。
「ほんと。それにわたくしたちの見せ場まで作って頂いて、恐縮の
至りですわ」
トリスタが、声を上げて笑った。その声に、ふたりは思わず背筋
を固くした。
「別に皮肉ではなくてよ。わたくしのようなおばさんにまで働き場
を与えてくださって、とても感謝しているのよ?」
アークライトもリーも、引きつった笑みしか浮かべることができ
なかった。
「おいメリエラ、どうしてあのおばさんがここにいるんだ?」
「私が知るか。火星圏に飽きたんじゃないのか?」
お互いを肘で突っつき合って小声で言い合う。
ふたりの正面には、ロンデニオン・ファディレ。その横に控える
のは、参謀長のイエス・ファセラ。他の提督たちは、アークライト
らの左右にずらっと並んでいた。一番ファディレに近いところにロ
ーゼム・ローゼンスが黙して立ち、その向い側にツァラ・トリスタ
がいた。
「時にアークライト提督」
ファディレの声に、慌てて居住まいを正す。
「貴官の下にいるパイロット−ウィロームとセラムだったか、彼ら
はどうしている?」
リーは薄く笑ってアークライトの横顔を見た。アークライトは少
し慌てたように言い募る。
「先の戦闘から帰還後、休養に入っております。…我が艦隊のパイ
ロットに過ぎぬ者の名をご存じとは、恐縮です」
僅かに身を固くした。そのアークライトに向かって妙に艶っぽい
視線を注いでいたトリスタがあきれた声を上げた。
「本気で言っているの?」
パチン、と手にした扇子を畳む。
「あなたがしでかした最大のことは、テラとの戦端を開いたことで
もなければ、単独で地球圏を維持したことでもないわ」
トリスタが、挑むように視線を鋭くする。
「あの子たちをパイロットに採用したことよ」
「…パイロットの採用については、現地司令官の裁量に依ります。
何か不都合があるのならば、その責を負うつもりですが」
「こらこら、何も君を責めているのではない。…いささか問題があ
るのは確かだがな」
ファディレはそう言って、傍らのファセラを眼で促した。ファセ
ラは進み出てアークライトに書類を渡した。
「これは…!」
横から覗き込んだリーが、思わず声を漏らす。アークライトは息
を呑んで、辛うじて声を出すのを堪えた。彼が受け取った書類の一
番上には写真が載せられていた。
「その写真の人物に見覚えがあるか?」
それは質問ではない。
「…我が艦隊のパイロットに、よく似た者がおります」
その物言いに業を煮やしたのか、トリスタが進み出た。
「はっきりおっしゃい。その娘がいるのでしょう?」
しなやかな指をアークライトに突きつけた。
「トリスタ提督」
ファディレがなだめるような声を出す。
「アークライトを糾弾するわけではない。貴女も言葉には気を付け
て頂こう。…で、どうなのだ?」
後半の問いはアークライトに向けてであった。
「…同一人物である可能性が、高いと思われます−しかし」
「しかし?」
「名はともかく、姓が異なりますが」
「…お前も迂闊な奴だな。本名を名乗ることもないだろう。それに、
母親の名前を見てみろ」
傍らからリーに促されて、アークライトの眼が僅かに震えた。
「…我々に、どうしろとおっしゃるのですか?」
「利用できるものは利用する。…無論、彼女の意志を尊重せねばな
るまいが」
「元帥は、この娘を13人委員会の筆頭に据えるおつもりよ」
トリスタの声に、アークライトは諦めにも似たため息をつく。
彼に代わって声を上げたのは、リーだった。
「13人委員会…ということは−」
「盟主」
ローゼンスが、ぽつりと呟いた。それに頷いて、ファディレが続
けた。
「そう。ラグランジュ同盟の盟主に、この娘を迎えたい。−頼める
か?」
アークライトは答えずに、書類の写真へと視線を注いだ。見慣れ
た顔が、彼を見返していた。
その視線から逃れるように、アークライトは宙を仰いだ。
少年と少女が、アームストロング市を遠望していた。
アームストロング市を覆う巨大なドーム。その外縁部は市内を一
望できる展望公園になっていた。人工照明によって彩られる、月面
の黄昏。頭上には「クレセント・アース」と呼ばれる、三日月状の
地球が浮かんでいた。
「ここが、月なんだ…」
セアは地面を踏みしめて、呟いた。1/6Gとはいえ、コロニー
とは異なった「大地の感触」が感じられるような気がした。踏みし
める足に、しっかりとした強さが返ってくる。コロニーでは常に感
じていたコリオリ力も、ここでは感じない。出かける前にグーラン
とキャッチボールをした時、ボールが見当違いの方向へ逸れてしま
って、ようやく実感したのだが。
「この辺でいいかな」
シャルが、見晴らしの良い一角で立ち止まり、セアを振り返った。
「そうだね」
セアが抱えてきたレジャーシートを広げる。
普段は観光名所かつデートスポットらしいのだが、さすがにラグ
ランジュ軍による占領直後ということもあり、人影はそれほど多く
はなかった。占領といっても特に規制などがかかるわけでもなく、
人や物の流れも通常通りで、商店なども平常通りの営業を行ってい
る。それでも、多くの市民は家や職場でテレビを見ているか、物見
高い人々は宇宙港へ見物へ行くかであった。
セアが敷いたシートの上で、シャルがバスケットを開いて、水筒
とパイと取り出した。
「これ、アップルパイ?」
鼻をひくつかせて、セアが問うた。
「うん−その、セアの口に合えばいいんだけど…」
上目遣いで見る。
「シャルが作ったの?」
こく、と頷く。セアはその物体に視線を落とした。香りはいい。
そう−正真正銘のアップルパイである。それは間違えない。しかし−
「…珍しい形をしてるね」
「あ…ごめんね、ヘタで」
「いや、そういうわけじゃないけど」
拗ねたようなシャルに手を振って、改めてその物体に眼をやる。
「おいしそうな匂いだね−食べていいかな?」
「うん。あ、お茶もあるわよ」
アームストロング市占領から3日。
アームストロング市入港の手配や準備、また乗組員総出で物資の
搬出や搬入などに駆り立てられ、何かと慌ただしい3日が過ぎた。
戦闘機はアームストロング市のMI社工場でメンテナンスを受ける
ことになり、クルーにも交代で休暇と下船許可が下りることになっ
た。アークライトはアームストロング市入港直後から下船しており、
ファディレの司令部に詰めていることが多かった。艦隊の管理はタ
リスが代行し、アルマリックとその乗組員はクライブ艦長に委ねら
れていた。
その日、つまり11月15日。
「シャル、今日から休みなんでしょう?」
同室のリニスに声をかけられて、シャルは笑顔を向けた。
「はい。でも、いいんでしょうか、お休みもらちゃって」
「いいのよ。いっぱい働いたんだから。それに、すごく楽しみにし
てたって顔よ?」
「え、あの、分かりますか?」
困ったような、それでも笑顔で問う。対するリニスも、柔らかな
笑みを浮かべた。
「それは分かるわよ、そんな顔してるんだから。さて、何を楽しみ
にしてるのでしょうね?」
少し拗ねたような口調で、言うと、リニスは手を振って部屋を出
ていった。
ひとり残されたシャルは、誰ともなく、呟く。
「…うん、頑張らなくっちゃ」
拳を握ると、部屋を出ていく。そのまま隣の部屋をノックする。
「カーツさん、います?」
「あ、シャル。おはよう」
「セア、おはようございます」
「おはよ、セア」
「おはよう、カーツ」
何となく珍しい取り合わせに、セアは心の中で首を傾げた。
「どうしたの、朝早くから」
「…別に、どうしたってわけじゃないんだけど」
「シャル、あたし先に行ってるから」
カーツが意味ありげに目配せして、先に歩いていった。
「あ、はい、分かりました」
その背中に答えるシャルに、セアはひとつ息を付いて言う。
「あ、あのさ、シャル」
「? なに?」
不思議そうに小首を傾げるシャル。
「えと、シャルも今日から休みなんでしょ? もし時間があるんだ
ったら…」
そこでシャルが困ったような表情を浮かべたので、セアは言葉を
止めた。
「えーと、その、ね、セア…」
言葉に迷うように、シャルが言いよどむ。しばしの逡巡の後、頭
を下げた。
「ごめんセア、今ちょっと忙しいの」
拝むように手を合わせる彼女に、彼は何も言えない。
「…そっか。遊びに行こうと思ったんだけど、忙しいなら仕方ない
か」
無理矢理笑い顔を作る。
「ごめんね。でも、後で一緒に行くから。一人で行っちゃだめだよ」
くるっと回れ右して、カーツの後を追うシャル。しかし、思い出
したように再ターンした。スカートが花のように舞う。
「約束だからね、セア」
「約束、か…」
セアは、艦内をさんざん探し回って、ようやく厨房でシャルを発
見した。正確には、たまたま外に出ていたカーツを見かけて、その
後を付いていったら厨房に辿り着いたのだが。
セアは閑散とした食堂に陣取って、カーツと一緒に何やらやって
いるシャルを見ていた。頬杖をついて、時折見える姿を、目で追っ
ている。
部屋から持ち出した本を読み、紅茶を飲みながらも、意識は絶え
ずシャルの方に集中していた。だから、近くに妙にヒラヒラした服
の少女が近づいてきたのにも気付かなかった。突然耳元に、そこは
かとなく甘い声がかかる。
「セ・ア・くん」
紅茶を啜っていたセアは思わず吹き出しかけたが、何とか寸前で
抑え込む。
「キョ、キョーコさん…」
むせそうになるのを我慢しながら、少し年上の少女の名を呼ぶ。
「脅かさないで下さいよ、もう」
「わたしに気付かないくらい、何に集中していたのかな〜?」
ニコニコと、顔を近づけてくる。
「べ、別に。本を読んでいただけですよ」
「逆さまだよ」
「え、え?」
慌てて本をひねくり回すセアに、ニコニコが一層大きくなる。
「うそ」
「…からかうんだったら、話しかけないで下さい」
「お姉さん、そんなに冷たくされるの、悲しいなぁ…」
「……」
さすがにわざとらしいと自分でも思ったのか、憮然としたセアの
視線の前でキョーコは表情を正した。といっても、いつもの笑顔に
戻っただけだが。
「セアくん、ひょっとしてシャルちゃんが相手をしてくれないから
寂しいの?」
「そ、そんなんじゃないですよ!」
キョーコの笑顔が、何かを見透かしているように思えて、セアは
カップを両手で抱えた。
「まあ、シャルちゃんはシャルちゃんとして、セアくん。キミの気
持ちはどうなの?」
「気持ちって…」
「キミには、伝えたいことがあるんじゃないの?」
「…別に」
拗ねたようにそっぽを向く。
「可愛くないわねー。ちなみに、お姉さんのアドバイスとしてはね…」
ずいっと笑顔を近づける。セアとしては、何となく彼女の胸元が
気になったが、せいぜい真剣な表情をして彼女を見つめ返した。
そんなことをしていたので、セアは、整備班長ユノー・ジュノー
が厨房に顔を出し、シャルを手招きしていたのに気付かなかった。
「おいしいよ、シャル!」
アップルパイを頬張ったセアは、苦労してそれを飲み込んでから
声を上げた。その表情を見れば、決してお世辞でないことが分かっ
た。
「よかったー。わたしも食べちゃお」
胸をなで下ろして、自分に取り分けたパイに手をつける。
「ほんと、おいしい…」
「でしょ?」
こんなに上手に出来るとは思わなかった。カーツの手助けがあっ
たとはいえ、はじめての、手慣れぬ作業。正直、自分でもあまりい
い出来とは思えなかった。実際、セアも戸惑ったように、完成型は
一見してアップルパイとは見えなかった。
「シャル、いつの間に練習したの?」
シャルの淹れたお茶を受け取って、セアが尋ねる。
「別に、練習したわけじゃなくて…カーツさんに手伝ってもらった
から」
「そっか…」
うつむいたシャルをセアは見た。
「でも、作ったのはシャルなんでしょ?」
ニコっと笑ってみせる。
「カーツのよりもおいしいよ」
「−ありがとう、セア」
他愛もないおしゃべりをしながら、ふたりはパイを食べお茶を飲
む。戦艦という空間、戦争という時間では味わえなかった、不思議
と落ち着いた気分だった。大地の感触が、こんなにも落ち着くもの
だとは思わなかった。
セアはコロニーの生まれで、地球はおろかここ月面にも来たこと
がない。そのために、本物の「大地」の感覚を知っているわけでは
ないが、しかし、コロニーの居住区には有害な宇宙線を防ぐため、
そして何より住人の精神安定のために、大量の土砂が敷き詰められ
ている。決して「土」の感覚を知らないわけではないし、セアはそ
れが嫌いではなかった。シャルもどことなく開放感のある表情を見
せていた。
一息つくと、ふたりはアームストロング市を一望できる展望台に
立って、月の街を見晴るかした。
「SS12から月−。そんなに遠くないはずのに、すごく遠くまで
来た気がするね」
大気循環装置の作用による「風」でなびく髪を抑えながら、シャ
ルは微笑んだ。その笑顔が赤い光に溶ける。黄昏の宙。ドームの隔
壁に挟んだ有機フィルムが、太陽光や温度を受けて、色を微妙に変
化させる。それを補うような、ドーム際の地上からの人工照明。月
の朝焼けと夕暮れは、そのようにして作られていた。しかし、それ
が人の手によるものとは、俄には信じられない。
「でも、わたしがここまで来られたのも、セアのおかげだよ」
感謝を−純粋な感謝を、シャルは言葉に込める。
セアは、ポケットの中で小箱を握りしめた。
「−そんなことない」
もう一度、噛みしめるように。
「そんなこと、ないよ。シャル」
きゅっと唇を結んで、顔を上げた。
決して明るくはない光の中で、むしろ、一層彼女の顔立ちは引き
立っていた。その人形めいた−しかし決して硬くはない彼女を見つ
めて、セアはポケットから手を出す。
「これ−えっと、もしよければ、受け取ってくれるかな」
リボンのかけられた、小さな箱。手のひらに乗っかる程度の、ほ
んの小さな箱。
それを、彼女の目の前に差し出した。
「…あ、ありがとう−」
おずおずと、それを受け取る。
「あの、開けて、いいかな」
彼の瞳を直視できず、その小箱だけを見て、彼女は言った。
「うん、いいよ」
ぎこちなく、首を動かす。
「…セア」
目を丸くした彼女は、ややあって顔を上げた。
春の太陽の瞳に、微かな波が走る。
「−ありがとう」
その表情に題を付けるならば−それは、満面の笑み、となるだろ
う。軽く両の目尻を拭って、彼女は箱からそれを取り出した。
黄色いリボン。
どこにでもある、ごくありふれた品のように見える。
「ありがとう、セア−」
それでも、彼女は何も言わずに、そのリボンを取り出した。そし
て箱をセアに預け、この2ヶ月の間に延びた髪を、それで括ってみ
た。伸びたとはいっても辛うじて肩の下まである程度である。それ
ほど長くはないなので、どうしても尻尾髪のようになってしまって
リボンは合わなかった。
「……」
彼の困ったような表情を見て、くすりと笑った。
「こっちの方がいいかな」
結んだリボンを解いて、今度は髪を括るのではなく、耳の後ろを
通して下から上へ、頭の上で結ぶように直した。宵空色の髪に、そ
の黄色がアクセントとなってよく映えている。
「うん、よく似合うよ」
ちょっとほっとしたように、セアは笑った。
「これ、本当にもらっていいの?」
「うん、いいよ。そのためのものだもの」
セアはキョーコの「アドバイス」の後、すぐに街へ降りた。さん
ざん迷った挙げ句、選んだのがこのリボンであった。決して高いも
のではない−むしろ、安物の部類に入るだろう。それでもセアは、
目に止まったそれを、諦めることは出来なかった。
「…ありがとうね、セア」
そして、セアから渡された小箱を握りしめた。
「初めてのプレゼントだね−とっても、嬉しいよ…」
言葉にすれば、それは平凡なものとなってしまう。
本当の感謝を−彼女の本当を伝えるために−。
だから、シャルは顔を上げた。
最初の夜風が、ふたりの髪と、シャルのリボンを揺らした。
すぅっと息を吸い込む音が、風に紛れる。
「セア−わたし、わたしね…」
揺らめくような、でも決して揺らがない輝き。
「わたしの、本当の名前は…」
ぎゅっと両手を握った。
セアは、静かに彼女の言葉を待った。
そこにある、何かを、受け止めながら。
そして、彼女は言った。
「わたしの本当の名前は…シャルレイン・ケムラー」
セアの表情が変わる前に、言葉を継ぐ。
「地球連邦政府最高会議議長、テラ総帥である、ローレンツ・ケム
ラーの、孫です」
立ちすくむセアに一瞥をくれて、彼女は顔を背けた。
「…ごめんね」
彼女は、走り去った。
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