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天翔ける騎士 第10章「螺旋の歩みの果て」

Eパート



"Earthlight Serenade" E-Part


 ウォリンガーは、ドアが開いたのを見て立ち上がったが、腰と膝
が途中で止まってしまった。
 宵空色の髪を肩まで伸ばし、人形めいた白磁の顔を縁取っている。
写真で見たとおりだが、確かに「真実」を写しても、決してその真
実の全てを伝えることができない点で、「写真」の名はふさわしく
ない。そんな感想を一瞬にして抱かせるほど、その少女は美しかっ
た。写真と違う点といえば、いかにもお嬢様然とした明るい茶色の
ワンピースと、宵空色の髪の上に彩られた、黄色いリボンくらいだ
ろうか。
「…お初にお目にかかります。ラグランジュ同盟盟主代理の、トマ
ス・ウォリンガーと申します」
「こちらこそ初めまして。シャルレイン・ケムラーです…といって
も、わたしのことをご存じで、こちらへいらしたのでしょうけど」
 ひんやりした少女の手を軽く握ったウォリンガーは、その言葉に
眉をひそめた。
「別に皮肉を申し上げたわけではありません。ただ、自分の甘さを
思い知っただけですから」
 ウォリンガーに座るように促しながら、シャルは屈託無く言った。
ウォリンガーはその笑顔を痛ましげに見遣った。
「まず申し上げますが、私個人としましては、貴女の生き方に口を
挟むつもりは毛頭ございません。ただ、貴女の存在が、この戦争に
大きく関わっていることは、ご理解頂きたいのです」
「承知の上で、戦いに身を投じて参りました。…決して正しかった
とは思っておりませんが、間違っていたとも思っていません。それ
に…」
 ウォリンガーというより、その向こうを見るような視線。
「この2ヶ月で、今まで見られなかったものを、たくさん見てきま
した」
 その時、ノックの音が響いた。
「失礼します」
 白髪の老人が、お茶を運んできた。
「ありがとうございます、ヴェルト」
 律儀に礼を言うシャルに、ウォリンガーは軽く違和感を覚えた。
「失礼ですが、こちらの方は…?」
「えと、昔、家でお世話をしてくれた方なんです。今は引退されて
いますけど。本当は地球からまっすぐこちらへ来るはずだったんで
すが、予定が変わったのと…わたしが我が儘を通したせいで、ずい
ぶん遠回りをしてしまいました」
 運ばれてきたコーヒーにミルクを注ぎながら、彼女は答えた。
「もう10年も前になりますか、ローレンツ様にお仕えしておりま
した。少し遅くなってしまいましたが、シャルレインお嬢様をお迎
えすることができて、妻共々安堵しておりますよ」
 目を細めて笑う老人から、ウォリンガーは顔を背けた。
「ならば、私はここから早々に立ち去らねばなりませんね。私はシ
ャルレイン殿に、ラグランジュ同盟の盟主となって頂くために、来
たのですから」
 そんなウォリンガーを見て、小首を傾げる。
「ウォリンガーさん、わたしがどうしてアルマリックに乗り続けて
いるか、その理由をご存じでしょうか?」
「…存じ上げません」
 コーヒーカップを取り上げて、軽く香りを嗅ぐ。
「お祖父様と…ケムラーと戦うため、と言ったら、信じてくれます
か?」
「同盟としては信じたいと思います。私個人としては、信じたくは
ありませんが」
 シャルはカップをソーサーに戻し、微笑んだ。
「正直なのですね、ウォリンガーさんは。だから、こんな損な役回
りをお引き受けになった…」
 思わず苦笑したウォリンガーだが、すぐに笑みを消す。
「逆にお訪ねしますが、では、なぜ今アルマリックを降りられたの
ですか?」
 ピク、とカップに伸ばしかけた手が止まった。
「…いろいろあったんです。アルマリックを離れて、シャルレイン・
セラムではなく、シャルレイン・ケムラーとして考えてみたかった
…この戦いの意味を。同盟のことを、わたしのことを」
 伸ばしかけた手を引っ込めて、彼女はソファーにもたれた。
「お祖父様に束縛されるのが嫌で、月面に止まるのを断ってSS1
2まで行きました。そこで逃げ出して、セアに助けてもらって、ア
ークライトさんに出会って、アルマリックに乗り込んで…そして、
わたしを口実にしてお祖父様は戦争を始めた」
 ウォリンガーは彼女を黙って見ている。ヴェルトは、いつの間に
か部屋から消えていた。
「わたしは、自分のことを明かせず、状況に流されるままにアルマ
リックに乗り続け…そして、力を得ました。エヌマ・エリシュとい
う力…わたしが、わたしの手で戦い得る力を」
 自嘲したように首を振る。
「いえ、結局整備は人任せですし、戦場ではキーツさん、グーラン
さん、リニスさん…カーツさんに、そしてセアに助けられなければ
何も出来なかった。それでも、わたしの力だと、信じて…信じて…
命を奪い続けました」
 膝の上で拳が固く握られる。それでも、視線はウォリンガーを捉
えたままだった。
「セアが、わたしのために戦ってくれていたから。だから、セアと
同じ道なら、歩いても良いと、思いました。ライルが現れても…だ
から、わたしは彼を拒みました。わたしの居場所は、セアの側にし
かないと思っていましたから−」
 ウォリンガーも彼女から視線を逸らさない。いや、逸らせない。
「でも、ジュノーさんから、同盟がわたしのことを知っていると聞
かされて、自分がとんでもない道化を演じていたことに気が付いて
…だから、アルマリックを降りました。唯一、セアにだけ、わたし
の口から真実を告げて」
 自分の居場所だと信じていた所が、偽りだったと知った時、彼女
はどう思ったのだろう。そこでの存在は、あるがままの自分ではな
く、他人の掌で踊らされるだけの、作られた、都合の良い存在。
 淡々と、時に微笑さえ浮かべて独白する少女の姿を、ウォリンガ
ーは瞬きを忘れて見つめていた。
「…そして、少し考えていました。わたしは、どちらで生きるべき
か。シャルレイン・セラムとして生きるべきか、シャルレイン・ケ
ムラーで生きるべきか。−でも、ウォリンガーさん」
 彼女は、微笑んだ。
 色あせた花が、それでも自らの姿を見てもらおうと、精一杯花弁
を広げたような、そんな表情を笑顔と呼ぶのであれば−。それは、
美しい微笑だった。
「わたしには、そんな選択肢は、最初から無かったんですよね」

 その問いに、否と答えられれば、どんなに楽か。
 貴女には無限の選択肢がある−と。
 私たちに束縛されることも無いのだと。
 そう答えられれば。
「この因果は、養父譲りなんでしょうけど…」
 そう。確か養父は、不用意な一言によって英雄に祭り上げられ…。
 結局、多くの命を奪う羽目に陥った。
 そして今、その養子は、ひとりの少女を英雄に祭り上げ−
 その全身を、血で汚そうとしている。
 多数の犠牲と、ただ一人の犠牲と、どちらがより良いか、という
引き算によって。
「わたしには、そんな選択肢は、最初から無かったんですよね」
 ウォリンガーは、意を決して、口を開いた。
「…ですから、貴女は−」

「逃げてもいいんだよ、シャル!」
 デウス・ウキス・マキナーは、少年の姿をしていた。

「…セア?」
 少女が、呆けたような表情で少年を見遣った。
「よかった、間に合った…」
 墨色の髪の少年が、息を切らせて倒れ込んできた。
 その少年に駆け寄って、彼の体を少女が支える。
「よく、ここが…」
「アークライトさんが、迎えに行けって、言ってくれた」
 開け放たれたドアの外には、ヴェルトが黙して立っている。いや、
その表情は、どんな言葉よりも雄弁だろう。
「最後の最後で、保険が利きましたか」
 妙にすっきりした表情で、ウォリンガーがこぼした。
 そんな周りの状況を知ってか知らずか、セアはシャルに掴まって
身を起こすと、ややぎこちなくシャルの手を取った。
「僕は…シャルといっしょなら、逃げてもいいって思う」
 頬を赤らめながら、それでも、決して恥じることなく、セアは言
う。
「…セア」
「僕は、シャルがどうしてアルマリックに乗って、そして降りたか
は、よく分からない。シャルが本当にケムラーの孫だとしたら、そ
れが理由なんだと思うけど、それでも僕にはよく分からない」
 真摯な瞳とは、彼の目を言うのだろう、とウォリンガーは思った。
別の意味で居心地の悪さを感じるが、さりとてこの場からいなくな
るわけにもいかない。
「でも、分かることもある。今いる所が嫌なら、逃げてもいいんだ
と思う。自分の居場所があるなら、そこまで逃げればいいんだと思
う。居場所が無ければ、見つければいい。見つからなければ作れば
いい。−だから、シャルはアルマリックに居たんだと、そう思って
た」
「でも、わたしはもう逃げたくない。わたしのせいで戦争が起こっ
てしまったから。だから、わたしだけ、自分の居場所でぬくぬくと
することは、絶対に出来ない」
 包む少年の手を愛おしく感じながら、それでも少女は毅然として
言い放つ。
「お祖父様と、わたしが起こした戦争だもの…」
 セアは手に力を込める。
「でも! シャルは今まで戦ってきたじゃないか! これ以上…」
 口を噤んだ。
「今まで、シャルレイン・セラムとして、戦って来ました。でも、
お祖父様と戦うのなら、シャルレイン・ケムラーとして、戦わな
くちゃいけない。他の誰も、わたしの代わりは務まらないから…」
 まっすぐ見つめるシャルに、セアは手を離した。
「…それに、今さら戦いから逃げ出せないよ」
 突き放すような声に、セアの手は、ゆっくりと引かれる。
「セアがわたしを守るために戦ってくれたのと同じ…これは、わた
しの戦いだから−」
 ふたりの距離のように、セアの手が離れていく。
「…でもね、セア?」
 その手を、シャルが握った。
「セアの隣が、わたしの居場所だってことは、絶対に忘れない」
 無言で問い返すセアの瞳に、シャルは笑って見せた。
 春の野に咲く、いっぱいの花のような笑み。
「セアと一緒なら、どこでだって戦えるよ。あなたの側に居る限り、
わたしはわたしで居られるから」
「…シャルは、どうするつもりなの?」
「セアと同じだよ。わたしにしか出来ない戦いをする。わたしにも、
守るものが…守れるものがあるから」
 ウォリンガーは、その答えにため息をついた。
「それで、よろしいのですか?」
「自己犠牲なんて、これっぽっちも考えていません。ただ、わたし
にその力があるなら、この戦争を終わらせるために使う。それだけ
のことです」
 絶望の底に残ったものは−
「でも、シャル−」
「大丈夫。あなたと同じように、守るものがある以上、わたしは死
んだりしないよ」
 慈母のような表情を浮かべる。
 片手でセアの手を掴んだまま、頭に片手をやって、リボンを解く。
 そのリボンを胸元に握りしめながら。
「わたしの居場所、絶対に失いたくない。だって−」
 握ったままのセアの手を強く、引いた。
「わたし、セアのこと、好きだから−」
 目を閉じたシャルの顔が視界いっぱいに広がるのと。
 花の香りに満たされたのと。
 唇に柔らかな温もりが触れるのと。
 甘めのコーヒーの味を感じたのと。
 ぶつかった歯に軽い痛みが走るのと。
 そして。
 聞き慣れた−いや、決して耳慣れることのない警報が響いたのは。
 セアの時間では、同時だった。

 慌てて表に出たセアとシャルの前には−。
 相変わらず狂ったように鳴り響く警報と。
 ウォリンガーを護衛してきたシークレットサービスを蹴散らして、
派手なブレーキ音とともに横付けされた、軍用ジープが、飛び込ん
できた。
「グーランさん、リニスさん?!」
「時間がないぞ、乗れ!」


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