次へ    前へ    目次へ

天翔ける騎士 第11章「辿り着く絶望。そして−」

Eパート



"stigma" E-Part


 アポロ市がヴァノン艦隊に占拠され3日。表面上はアポロ市も平
静を保たれていた。だが、各地で不満は噴出していた。
 アポロ市の出入りを禁止したことはもとより、通信回線と電力の
優先使用、夜間外出禁止と昼間時外出自粛、市内各所での検問やボ
ディーチェック、また部隊の展開場所確保のための施設と用地の徴
用などは、平和に慣れた人々の不満をかき立てるには、十分すぎる
ほどであっただろう。そして、占拠3日を過ぎて、顕在化しつつあ
る問題があった。
 ヴァノンはアポロに帰還するや否や、最優先で食料の確保を行っ
ていた。市内にある流通倉庫において、配送される前の食料を接収。
軍の備蓄も含め3ヶ月分の食料は確保できた。しかし、それは軍の
分のみに過ぎなかった。市内に配備された部隊の影響もあり、配送
遅延やそもそもの物資不足によって、品物の供給に支障を来たし始
めていたのである。
 職務を停止されていたアポロ市長がヴァノンに面会を申し込んだ
のは、その3日目の午後のことであった。
「このままでは市民が窮乏するのも時間の問題だ」
 ヴァノンが執務室とした部屋に通され、開口一番にアポロ市長は
言い放った。外見だけを見れば決して市長には相応しくない。貧相
な小役人といった体である。しかし、「静かなる颱風」を前にして
も、少しも気後れした風がないのは、さすがとしか言いようがない。
「連邦軍が援軍に来るまでの、一時の辛抱に過ぎません」
 ほとんど眠っていないのだろう。充血した目を瞬かせながら、ヴ
ァノンは面倒くさそうに答えた。職務停止中とは言え、自治都市の
市長である。制度の上で言えばヴァノンよりも高い位置にいるため、
執務室の中はふたりだけになっていた。もちろん部屋の外には武装
した護衛兵もいたが、市長の見たところ士気が高いようには見えな
かった。
 市長は、あからさまに取り合いたくなさそうなヴァノンに、口調
を荒げる。
「援軍の来る保証があるのか。そもそもアポロの食糧自給率は一桁
にも満たない、典型的な消費型なのだぞ。それなりの準備があった
のならともかく、もうあちこちで食料の供給が滞り始めている」
 ヴァノンは大きくため息をつく。
「現在、食料については、配給の検討を行っています。数日中には
体制が整うでしょう。市民には我が軍の行動に理解を求め、秩序あ
る行動を期待しています」
 市長は、その小柄な体を精一杯怒らせた。
「軍は市民を守るためにいるのではないか?」
「だからこそ、こうしてラグランジュ軍の侵攻に抵抗しているので
す」
 忌々しそうに、ヴァノンが言い捨てた。明らかに嫌悪の表情が浮
かんでいた。もっとも、嫌悪の色を浮かべているのはヴァノンだけ
でもないが。
「言わせてもらうが、極端な話、どの勢力だろうが関係はない。日
日の生活を保障してさえくれれば良いのだ。それとも、市民に不自
由を強いるのが軍のやることなのか」
 ドン、とヴァノンの机を殴りつける。
「聞けばアームストロング市では、ラグランジュ軍の占領後も日常
生活にはほとんど変化がなかったそうだ。むしろ行政サービスなど
では改善点も見られたと」
「状況が異なる以上、比較の対象にはなりません」
 喉の奥から絞り出すように、ヴァノンが呻く。
「市民を守るためという軍隊が、市民を苦しめる。その矛盾に気づ
かないのか」
 押し殺した声で、市長が言い募る。
「一時の問題に過ぎません」
「あなた方は負けたのだ。それを認めないから、おかしなことにな
っている」
 ギリっと歯が鳴った。
「負けてはいません。現にこうして抵抗している」
「援軍の来る当てもない籠城は、負けに等しい」
 市長は一歩引いた。
「先日、私は言ったはずだ。『軍が市民を守って頂ける限りは援助
を行うが、義務を放棄した場合はその限りではない』と」
 小柄のはずの体が、ひとまわり大きく見えたのは、気のせいか。
「今のような状況が連邦軍のやることならば、月面アポロ市は連邦
軍を必要としない。速やかに退去願う」
 ヴァノンの表情が消え、腕が動いたと確認する暇もあればこそ、
瞬間、ヴァノンの放った銃弾はアポロ市長の額を貫き、後頭部から
血の花を咲かせていた。
 銃声にドアを押し破るように入ってきた警備兵が、未だ硝煙漂う
拳銃を構えたヴァノンに視線を向ける。
「…アポロ市長はラグランジュ軍と通じ、我が軍を損なう言動を行
いました。故に、司令官権限により処分を下しました」
 薄笑いさえ張り付かせて、ヴァノンは仰向けに倒れた市長を見下
ろす。
「市民の中にも、ラグランジュ軍に利する行動を取る者が多く出て
くるでしょう。アポロ市が一致団結して反乱軍に抗するため、その
ような危険分子は速やかに排除することが望ましい」
 ヴァノンは、ゆっくりと顔を上げた。怯えたような表情の警備兵
を、厳しい表情で見回す。
「市内の全軍に発令しなさい。現場指揮官の判断において、早急に
反乱分子の発見と処置を行うように、と」
 ヴァノンが市長に対して引いた引き金。
 それは、文字通り「アポロの悪夢」の引き金となった−。

 「現場指揮官の判断」とは、非常時によく用いられる言い回しで
ある。法との厳密な照合も必要とせず、その場の判断で「適正と思
われる」処置を下せる−。ヴァノンは否定するだろうが、これは曲
がりなりにも連邦国防法の非常事態規定によって、一応は守られて
いた最低限の枷を、取り払ってしまったことを意味した。

 そもそものきっかけは何であったか−。
 市内各所で、ほぼ同時刻に複数の事態が生じていたため、それを
特定するのは困難であった。だが、概ね似たようなことであったの
は確かである。

 市庁舎前。
 物々しく警備を行う軍の横で、排除された警官隊が、それでも自
分の責務を果たそうと配置に付いていた。市庁舎に来た市民に執拗
に尋問する兵士を取りなして、市庁舎の業務が停止されていること
を説明したり、施設使用を巡って口論が繰り返されたりするのは、
この3日間の、ある意味で日常であったと言えよう。だから、ヴァ
ノンからの指令が行き渡った直後、警官隊の責任者が軍車両の騒音
について市民の苦情を受けたため、控えめに苦言を呈しに来たこと
は、別に何ともないことであった。そして、兵士との間で押し問答
になったのも、当たり前の光景であった。ただ違ったのは、ヴァノ
ンの指令を受けた指揮官がその場にやってきて、警官隊の見守る目
の前で警官隊の責任者を射殺してしまったことだけであった。

 あるいは、市民団体の抗議行動に対して威嚇発砲したところ、そ
の兵士目がけて、どこからともなく石が飛んできた。それに激昂し
た兵士が銃を乱射し始めた。血煙の中倒れる市民の中から、陽光を
きらめかせて、兵士の足下に落ちてきたのは、一本の瓶。気付いた
ときには、その兵士の体は炎に包まれていた。動揺が広がる兵士目
がけて、残った市民から投石や火炎瓶が相次ぎ、それに対して軍は
発砲。さらに、死んだ兵士からか銃を奪った市民からも発砲があり
…そして、たちまち市街は血泥にまみれていった。

 市内中心部の貴金属店。
 軍が展開した直後からシャッターの降りていた店だったが、銃声
と共にガラスの割れる音と、シャッターを叩き壊す音が鳴り響いた。
警報ベルの鳴り響く中、店内に侵入してきた兵士達は、ガラスケー
スを壊して、陳列された貴金属類を端からすくい取っては持参した
袋に詰めている。けたたましく鳴り響く警報ベルも、銃の掃射を受
けて沈黙してしまった。兵士達は、侵入したのと同じくらいの脈絡
無さで店を出、そのまま隣の店のシャッターへ向けて銃を乱射し始
めた…。

 物流倉庫では、民間の警備会社のガードマンを射殺した兵士達が、
食料やそのほかの物資をトラックへ次々と積み出していた。
「ここの物資は、市内に流通させるものです! 軍には既に必要分
を供出済みで…っ!」
「黙れ、軍が必要と認めたのだ」
 何事かと詰め寄る倉庫の管理者を、銃を握った手で殴って昏倒さ
せながら、兵士達はその作業を続けていった。
 頭から血を流して倒れる管理者の体の横には、一枚「徴発令状」
と記された紙が落ちていた。

 軍に少しでも非協力的な態度を取った者、兵士の要求に応じなか
った者…些細な理由で、兵士達は銃を抜き、引き金を引き、時には
自らの手で、市民の命を奪っていった。
 混乱に乗じて、商店への略奪などを働く市民もそれなりにいたが、
彼らは速やかに軍によって排除されていった。それは秩序を保つた
めでは当然あり得ず、単なるパイの奪い合い以外の何者でもなかっ
た。
 その混乱は僅かな時間で市内全域に広がり、市民達は、事態を良
く把握しないまま、市内を逃げまどうか、もしくは建物の中に息を
ひそめて嵐の通り過ぎるのを待つより他に手段を持たなかった。ど
ちらがよりよい選択であったかは分からない。どちらも、結果は同
じようなものでしかなかったから。
 拷問。略奪。強姦。そして殺戮。
 何か、鬱積されたものを吹き出すように、狂乱の宴は続いていっ
た。

−もしもし、わたし!
−やっと通じた!
−助けて、今すぐ!
−どこって、アポロよ!
−分からないけど、軍隊が急に…
−そう、『お前ら、ラグランジュの味方だろうって』…
−え、何? 聞こえない!
−お母さん撃たれちゃったし! 兄さんとは連絡つかなくて、わた
しどうしたら…
−ねえ、聞こえてる?
−ねえ、返事してよ!
−お願い、助けてよ!
「いたぞ!」
「そこで何してる!」
 銃声。
 ツー。ツー。ツー。

 はっ。はっ。はっ。
 重い呼吸は、手に持っているものの重さなのだろう。
 青年は、道に倒れていた兵士から、持っていた銃を手に入れた。
それは、予想していたものよりも、ずっと重く、ずっと冷たかった。
 なぜ自分がこんなものを持って走っているのかは分からない。た
だ、自宅に残してきた妻と、幼い息子の安否だけが、気に掛かって
いた。
 どこをどうして走ったのかは憶えていない。
 いつもは地下鉄で20分かけて通う道が、今は短かったのか、長
かったのかさえ、記憶になかった。ただ、破壊された自宅のドアに、
絶望的な予感を抱きながら、彼は、その壊れた玄関から室内へと入
る。律儀に靴を脱いで、「ただいま」と言ってしまった自分に違和
感すら感じず、見慣れたはずの、でも見慣れないものとなってしま
った自分の家を、一歩一歩歩む。そして、開け放たれた居間から見
える白い足に、彼の視界は赤く染まった。
 胸に大きく赤い花を咲かせた、彼の妻。そして、その血の中で、
首をあり得ない方向に曲がらせている、彼の息子。唐突に感じた人
の気配に、振り返って銃を構えた。
 びっくりしたような表情で、3人の兵士が居間を覗き込んでいた。
 銃を構えた自分をニヤニヤ笑いながら両手を挙げる兵士達のひと
りの小指に、妻がしていたはずの指輪を見た瞬間、彼の理性は吹き
飛んでいた。引き金にかけた指に、精一杯の力を込め、そして、兵
士達はそのまま立っていた。
 ニヤニヤ笑いをいっそう大きくする兵士達の前で、青年は一生懸
命引き金を引こうとしていた。だが、引き金は固く動かなかった。
 カチリ。
 金属の音に彼が目を上げると、死の口が、彼の視線を受け止めて
いた。
 −血痕さえ無ければ。
 −幼児の首があり得ない方向に曲がっていなければ。
 −そして、彼らの表情さえ見えなければ。
 それは、家族3人が、平和に昼寝している光景に見えたかも知れ
ない−。

 少女は、今、自分の上で必死に腰を動かしている兵士が、一体何
人目であるか、数えてはいなかった。痛みとか、苦しみとか、絶望
とか、そんな情動はとうに彼方へと消え去り、兵士の顔すらも、学
校の美術室に掛かっているような抽象画よりも訳も分からないもの
にしか見えなかった。涙は枯れ、喉は破れ、今や母親と姉がどうな
ったかさえも、思考することはできなかった。思考という行為がひ
どく億劫になっていた。血の匂いと、何か饐えた生臭い臭いとで嗅
覚は麻痺し、激痛を感じていたはずの体も、今ではフワフワと、自
分のものではないような気さえし始めていた。
 何となく兵士が入れ替わったような気もしたが、単に顔の位置が
変わっただけなのか、本当に他の兵士に変わったのかすら、少女に
は分からなかった。時間という概念すらも白濁した彼方へ消え始め、
その瞳は濁ったガラスよりも茫洋としていた。
 だから、何気なく延ばした手が、兵士の腰のベルトに挟まれた物
に触ったとしても、それが何かを知ることはできなかったはずだ。
少女は、その冷たい感覚だけを感じ、自分の上で動いている薄汚い
物体にそれを突き立てた時も、自分が何をしたのか、自覚してはい
なかっただろう。皮を割き、肉を断ち、骨に当たって刃が止まった
ことも、そこから流れ落ちた液体が、少女の、ほとんど起伏のない
胸を染めたことも、そしてしばらく前から表情の消えていたはずの
少女の顔が、この世のものとも思えぬほど美しい笑みを形作ったこ
とも。
 そして、脱力した腕が落ち、腕に引きずられる形でその刃が、自
分のまだ育ちかけの胸に突き立った時も。
 その笑みは、彼女の顔を彩っていた。

 それが、誰によって撮影されているかは、見た者には分からなか
った。このような状況でも職務に忠実なカメラマンかジャーナリス
トなのか、あるいは使命感に燃えた一介の市民なのか。だが誰が撮
影しているかは、見ている者にとっては、大きな問題ではなかった。
いや、きっと後になればそれも重大な問題になるのだろうが、その
時点では、そこに撮影されているものの方が、より重大な問題であ
った。
 広場に並べられた市民を、端から射殺していく兵士。
 火炎瓶が当たって炎に包まれながらも、倒れた市民や兵士を蹂躙
しながら、市民の列へと突っ込む戦車。
 逆手に持った銃や金属パイプ、角材を振り回し、ガラスを叩き割
りながら商店を略奪する兵士や市民。
 両手を挙げて壁に手を付く市民を背後から射殺する兵士。
 逆に、少人数でいた兵士を市民が取り囲んで、袋叩きにする姿。
 街頭でどこからか女性を捕まえてきては輪姦をする兵士や市民。
 一般市民宅へ押し入り、家財を片っ端からかき回して、金目のも
のだけを奪っては、隣の宅へと押し入る兵士や市民。
 撮影されたものが、どのように流されたのかすら、この時は問題
にはなっていなかった。ただ、偶然受信した誰かがいて、どのよう
な経緯を辿ったのか不明ながら、アポロ市からの緊急リポートと称
して、公共の電波に流されたのだろう。
 だから、アルマリックで待機中だった少年と少女が、その映像に
声を失っていたとしても、別に大した問題でもなかった。
 そして。
 物陰から銃を構えて市内をうろついていた兵士を写していた時も、
その兵士が突然カメラの方向を向いた時も、銃口が火を噴いて画面
の下半分が赤く染まって、次の瞬間、ビルの隙間から見えるアポロ
の空を写した時も、その画面が影になって、突然砂嵐しか写さなく
なっても。
 その光景が公共に流されていたこと自体は、何も問題ではなかっ
た。

 だから。
 画面の下半分が赤く染まった瞬間。
 少年と少女は、椅子を蹴倒して走り出していったことも。
 当然の結果であったのだろう。


次へ    前へ    目次へ