神門、燈籠、狛犬などが置かれていない、がらんとした飯石神社の境内。


中・近世には毛利氏や松江藩主の尊崇を受け、江戸時代前期の貞享年間(1684〜1688)に火災により焼失するが、
元緑2年(1689)に再建された。明治5年(1872)に郷社となり、大正6年(1917)には県社に昇格された。


幣殿後方の二重の玉垣の中にあるご神体の磐座。まるで隕石のように、天から降って来たという伝承が残されている。


握り飯、または飯を盛った形などとも形容されるご神体の磐座。
 飯石(いひし)郡の式内社・飯石(いいし)神社は、斐伊(ひい)川の支流・三刀屋(みとや)川のさらに支流となる飯石川(別名:託和(たくわ)川)の右岸に鎮座している。雲南市三刀屋町を走る県道176号(掛合大東線)から脇道に入り、清流に沿った杉木立の参道に至るのだが、入り口に案内表示がないのでちょっと分かりにくい。

 石鳥居のさきのがらんとした境内には、一般の神社に見られる神門、燈籠、狛犬等が置かれていない。明るい日差しの中にも人影はまったく見られず、ものの音といえば脇を流れる川のせせらぎばかりで、あたりはのどかな気配に静まっていた。
 境内奥にある社殿は西を向き、本殿はない。幣殿後方に祀られている磐座をご神体とし、本殿にかえているところは、今回の旅で見た松江市宍道町の「石宮神社」、松江市西生馬町の「生馬神社」、出雲市斐川町の「万九千神社」、出雲市塩津町の「石上神社」などと同様のスタイルで、古代の祭祀形態を今に継承する社殿形式となっている。

 二重の玉垣の中に置かれた磐座の大きさは、長径2.7m、短径2.4m、地上に露出している部分の高さ1.2m。亨保2年(1717)に編纂された『雲陽誌』飯石郷多久和の条には、「飯石社 往昔一石隕つ 高さ三尺四寸(1.03m)ばかり 周囲これに適す 形飯を盛かことし 故に其地を称して飯石といふ」とある。

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 この地域は、平成16年の市町村合併まで「飯石郡」と称されていた。この郡名は古代から残る地名で『出雲国風土記』には郡名の由来について、「飯石となづくる所以は、飯石郷の中に、伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)坐(いま)す。故、飯石と云ふ」と記されている。さらに郷の条には、伊毘志都弊命が天降り場所だから「伊鼻志(いびし)」というと述べ、神亀三年(727年)に、字を「飯石」に改めたと記されている。すなわち当社は、伊毘志都幣命降臨の聖地であり、飯石の地名は当社の主祭神の名「いびし」に由来するという伝承である。

 伊毘志都幣命は『出雲国風土記』にのみ登場する神である。一説には農耕拓殖の女神といわれているが、社殿の屋根に設けられた千木を見ると、外削ぎとなっているので男神とも考えられる。風土記にも性別の記述はなく、今ひとつ明らかでない。

 神社の由緒書には、伊毘志都幣命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の第2子・天穂日命(あまのほひのみこと)の御子・天夷鳥命( あめのひなどりのみこと)のことで、別名・武夷鳥命(たけひなどりのみこと)と同一神であるとされている。また、出雲国造家の祖神・出雲伊波比(いずものいわひ)神とも称されており、 今も飯石神社の例大祭(毎年11月4日)には、出雲大社の宮司が参向し、奉幣が執り行われている。

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 明治44年(1911)の遷宮工事の際には、この磐座付近から古墳時代後期の祭祀用遺品とみられる子持ち高坏(たかつき)、壷などの須恵器類が出土している。
 また、飯石川の北対岸にある宮田遺跡では、縄文時代中期から後期にかけての、石斧(せきふ)・矢じり・石皿・すり石などの石器類や土器が見つかっており、なかでも乳幼児を葬ったと思われる倒立埋甕(うめがめ)は、西日本では珍しいもので、縄文人の生活環境や河川での狩猟採集をうかがい知ることができる好資料として注目されている。その他にも、当社の付近には、横穴や小円墳など古墳時代の遺跡も存在するという。

 飯石川について付け加えておくと、『出雲国風土記』に「飯石の小川。源は郡家の正東一十二里なる佐久礼(さくれ)山より出で、北に流れて三屋(みとや)川に入る。鐡(まがね)あり。」と記されている。「鐡」とは鉄のことを指している。中国山地には鉄分多くを含んだ風化花崗岩が広く分布し、斐伊川流域では、古墳時代に始まったとされる「たたら製鉄」が盛んに行われていた。「たたら」が、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされた技術であることは明らかである。

 このような「たたら」の技術と出雲国造の祖神とされる伊毘志都幣命はどのような関係にあったのか。石となった伊毘志都幣命の情報は乏しく、どこから天降ってきたのか、その正体は謎のままである。

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2016年4月29日 撮影


飯石川(右)沿いの参道。 周囲には山々が連なっている。

案内板